日本で、国家的な行事が始まる前に耳にする音楽といえば、「君が代」ですよね。
この歌は古くから歌われてきた歴史があり、学校でも習いますので、「君が代」の歌詞を誰もが口ずさむことができるのではないでしょうか。
しかしながら、「いったいどういう意味があるのか分からない」と思う方が多いようです。
そこで、この記事では、
- 君が代の意味と成り立ち
- 歌詞に出てくる「さざれ石」とは
- 君が代の続きはある?
- 君が代の海外の反応
について、解説・紹介していきます。
君が代の歌詞の意味とは?
「君が代」は古くから歌われてきた和歌が元となり、歌詞となった歴史があります。
まずはじめに、「君が代」の由来となった和歌やその流れを見ていきましょう。
平安時代が始まり
「君が代」は平安時代前期にあたる905年に編集された『古今和歌集』の和歌が元となって作られています。
元となった和歌の作者は「読人知らず」として名前が伏せられていますが、惟喬親王(これたかしんのう)にお仕えしていた身分の低かった木地師が作った歌とされています。
この和歌が朝廷に認められてからは、「藤原朝臣石位左衛門(ふじわらのあそんいしざえもん)」という名を授けられたようです。
最初の君が代
当初「君が代」は、祝賀の歌として「祝福を受ける人の寿命」を歌ったもので、現在の「君が代」とは少し歌詞が違っていたようです。
『わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで』
元々の和歌は「君が代」の部分が「わが君(きみ)」となっていますね、「わが君」とは敬愛する相手を指す言葉となっており、次のような意味となっています。
『あなた様は、千年も八千年も(この先も限りなく)長生きして下さい、小石が大きな岩となって苔が生えるまで』
となります。
元々この歌は「おめでたい歌」とされ、新年に歌われる賀歌(がか)とされていましたが、鎌倉時代(1185~1333年)~室町時代(1336~1573年)になると、様々なお祝い事に歌われる歌となり、宴会のお開きの歌としても定着したそうです。
ちなみに、「わが君」が「君が代」に変わったのは平安時代中期の詩文集である『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』からと言われていますが、時代の流れと共に直接的表現である「わが君」から、間接的な表現の「君が代」へと変わっていったと考えられています。
また、「君」は相手への敬語として使われる言葉で、「代」は歳月を指す言葉となっています。
隆達節(りゅうたつぶし)により、庶民の間で流行
安土桃山時代になると、恋の小唄で有名な高三隆達(たかさぶりゅうたつ)によって「君が代」が『恋の歌』として歌われたことで庶民の間で流行することとなったようです。
『君が代は千代にやちよにさざれ石の岩ほと成りて苔のむすまで』
上記の歌の意味は、岩を男性、ほとを女性とし『愛しいあなたとずっと交わり合っていたい』という性的な意味を含むものでしたが、当時は性に対しての考え方が違ったこともあり、広く受け入れられたようです。
その後、婚礼の際の祝いの歌としても歌われた「君が代」は、明治時代になるとイギリスとの国交が進む中で国家の候補として挙げられることとなります。
『蓬莱山(ほうらいさん)』から君が代を抜粋
明治2年(1869年)のこと、海外からの国賓(こくひん)を招くにあたり、イギリスの軍楽隊長であったジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのは大変遺憾なこととして、自ら作曲を申し出たとされています。
その当時の薩摩藩砲兵隊大隊長であった大山巌(おおやまいわお)は、薩摩藩士の間で知れ渡っていた薩摩琵琶歌である『蓬莱山(ほうらいさん)』の歌詞の一部となっていた「君が代」を推薦することにしたそうです。
『蓬莱山』の歌詞は次のような歌詞になります。
目出度(めでた)やな君が恵みは久方の光り閑(のど)けき春の日に
不老門を立ち出でて四方(よも)の景色を眺むるに
峯の小松に雛鶴棲みて谷の小川に亀遊ぶ
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
命ながらへて雨塊(あめつちくれ)を破らず風枝を鳴らさじと云えば
また堯舜(ぎょうしゅん)の御代も斯(か)くあらむ ・・・(以下省略)
この歌は、縁起の良い言葉を連ねたものとなっており、祝賀の歌として歌われていました。
『蓬莱山』での「君が代」の意味は、敬愛する人の長寿を願うものとなっています。
こうして「君が代」の歌が選ばれ、翌年の明治3年に曲がつけられ演奏された「君が代」でしたが、西洋的な旋律と威厳の感じられない楽曲が受け入れられず、普及することはなかったと言われています。
国歌としての君が代
その後、国歌が外交儀礼上欠かせないものとなった明治9年(1876年)に、その時海軍楽長であった「中村祐庸(なかやますけつね)」によって曲の変更が要望されることとなります。
そして明治13年(1880年)、雅楽課の「奥好義(おくよしいさ)」によって曲に日本古来の旋律がつけられ、その上司であった「林廣守(はやしひろもり)」が曲を完成させて、ドイツの海軍軍楽教師の「フランツ・エッケルト」が吹奏楽用に編集を行い、国歌として演奏されることとなったとされています。
この時作られた「君が代」が現在の国歌としての「君が代」の始まりと言えますが、国歌としてすぐに制定されたわけではなく、正式な国歌とならないまま国際的な式典で演奏されるなどしていたそうです。
学校で普及した「君が代」
その後「君が代」は、学校教育を通して普及することになり、当初は『祝祭の唱歌』として広められました。
昭和に入ると国歌としての意味合いが強くなり、小学校の教科書で「君が代」は、
『天皇陛下のお納めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになりますように』
という意味で教えられるようになりました。
しかし、第二次世界大戦後になると軍国主義から民主主義への流れや、天皇が国の象徴となったことなどから、教育の場で歌うことの是非や、軍国主義時代に歌われた歌はふさわしくないとされ、教育連盟などで「君が代」に代わる歌が作られるようになります。
1999年にようやく、正式に国歌として制定
その後、様々議論された「君が代」でしたが、昭和26年(1951年)サンフランシスコ平和条約が締結されて以降は、「平和国家日本」として再び演奏されるようになり、国旗掲揚と共に「君が代」が歌われることが望ましいとされるようになりました。
その結果、反対組織などからの反対がありましたが、平成11年(1999年)8月13に「国旗及び国歌に関する法律」が施行され、正式に国歌として「君が代」が制定されることとなったそうです。
国歌としての君が代の意味
大日本帝国憲法下では「君」は「国を統治する天皇」を指す言葉とされていましたが、日本国憲法下では「日本国民統合と国を象徴し、日本国民の総意に基づき地位が定められている天皇」を指す言葉とされ、「君が代」の歌の意味としては、
『日本国の繁栄と平和が千年も万年も末永くつづいていきますように』
という願いが込められたものとされています。
「君が代」は、時代によって様々な意味で歌われてきましたが、約1000年の時を経て歌い継がれてきたというのは感慨深いものがありますね。
ところで、「君が代」の歌詞には「さざれ石の巌となりて」とありますが、実際に小さな石が大きな岩へとなることがあるのでしょうか。
君が代のさざれ石とは?
さざれ石とは一般に「小さな石」という意味で使用されます。
通常では、小さな石が年月と共に大きくなることはありませんが、当時は比喩的表現として、「小石が大きな岩となり、そこに苔が生えるまで」という言葉を使ったとされています。
しかしながら例外として、小石が堆積し、長い月日をかけて炭酸カルシウムや水酸化鉄がその隙間を埋めることによって、小さな石が一つの大きな岩の塊に変化することがあります。
小石から大きな岩へと変化した石のことを「石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)」と言いますが、後に「君が代」で歌われている「巖(いわお)」とはこのことを言っているのだと考えられ、現在ではこの岩のことを「さざれ石」と呼ぶこともあるようです。
ちなみに、「君が代」の「さざれ石」の由来だとされ、天然記念物に指定されている「石灰角礫岩」が、岐阜県揖斐郡揖斐川町春日川合(ぎふけんいびがわぐんいびがわちょうかすがかわい)に祀られてあります。
君が代の歌を詠んだとされる木地師であった「藤原朝臣石左衛門」が、この岩を見て大変珍しく、おめでたい岩だと感じ、歌を残したと言われています。
君が代には2番以降も存在する?
「君が代」は現在では1番までしかなく、世界で最も短い国歌とされていますが、明治時代に祝祭の唱歌として普及し始めた際、「君が代」で始まる和歌を集めて4番まで載せた教科書が作られることがあったようです。
明治23年(1890年)に発行された「生徒用唱歌」には、「三大祝節頌歌(さんだいしゅくせつしょうか)」として「君が代」が掲載されており、そこには歌詞が3番まで存在しています。
ちなみに、2番から4番の歌詞は次のようになっています。
【2番】君が代は千尋の底の細石の鵜のゐる磯とあらはるるまで
【3番】君が代は千代ともささじ天(あめ)の戸やいづる月日のかぎりなければ
【4番】君が代は久しかるべしわたらひやいすゞの川の流たえせで
2番から4番までの作者は、上から「源頼政(みなもとのよりまさ)」・「藤原俊成(ふじわらのとしなり)」・「大江匡房(おおえのまさふさ)」となっており、いずれも平安時代の歌人となっています。
明治26年(1893年)に「祝日大祭日歌詞並楽譜(しゅくじつたいさいじつかしならびにがくふ)」が作られ、国歌として1番のみが掲載されたことで、統一されることとなりました。
「君が代」海外の反応とは?
海外の国歌を聞いていると華やかで力強い印象がありますが、ヨーロッパ諸国の国歌は行進曲や賛美歌の型式が多く、国歌は「賞賛や愛国心を表す歌」とされています。
特に海外の国歌の内容としては「戦いに勝利する」というようなものが多く、強い国を表す歌詞となっています。
その中で日本の曲は、歌詞に自然が取り入れられ、曲調も穏やかなものとなっており、控えめな印象を与えます。
この曲調が日本らしいと海外では好感を持つ人が多いようです。
美しい、感動する、平和的な歌詞が日本人と重なるなどの声が聞かれ、日本人が思っている以上に素晴らしい国歌とされています。
明治36年(1903年)に「世界国歌コンクール」がドイツで開催された時には、日本の「君が代」は「世界で最も荘厳な音楽」と言われ、一等を受賞しています。
日本では『「君」が何を表しているのか』でよく問題視されていますが、世界から見ると、戦争など感じさせない平和を願う歌として捉えられていることが分かりました。
まとめ:「君が代」は日本の繁栄と平和が末永くつづいていくことを願う歌
- 「君が代」は平安時代の歌集『古今和歌集』の和歌が元となっている
- 元となった和歌は「敬愛する人の長寿を祝う」歌だった
- 君が代は1999年8月13日に正式な国歌として制定された
- さざれ石の由来となった石は岐阜県に存在する
いかがでしたでしょうか。
「君が代」は天皇による治世を讃える歌とされた時代があり、教育の場で強制的に歌わされたことで軍国主義を招いたという過去があります。
そのため、現在でも「君が代」に対し様々な反対意見があるようです。
戦後に「君」の捉え方を変えただけで歌そのものが代わっていないことも「君が代」が支持されない要因となっています。
しかしながら、国歌に対する儀礼作法は国際的なマナー(常識)となっているため、教育現場では教える必要があるとされています。
元々、祝賀の歌として歌われてきた「君が代」自体は、相手を思うとても良い歌であり、平和を願う気持ちで歌う「君が代」は大切にしていきたいものですね。
ここまでご覧いただきありがとうございました。