建国記念日というと、「建国されたことを記念する日」というのは想像がつくと思いますが、日本はいつから建国されたのかをご存知でしょうか。
戦後の日本では、建国の由来や経緯を学校では教えていないので、誰が建国したのかや、いつ建国されたかなど分からない方が多いと思います。
また、日本では「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」として制定されていますが、間に「の」が入ることに疑問を持つ方も多くいらっしゃるようです。
そこで、この記事では、
- 建国記念日とは
- 建国記念日と建国記念の日の違い
- 建国記念の日の由来
- 日本を建国したとされる神武天皇とは
- 神武天皇が即位するまでの経緯(神話)
- 2022年で日本は何歳になる?
- 世界の建国記念日
- 建国記念日の英語表現
について、解説・紹介していきます。
建国記念日とは?
「建国記念日」とは、
『国家として確立したことを記念する日』のことです。
国により、何を定義として建国の日付とするかは異なりますが、自国の領土と永続的な国民が存在し、国を統治する権力組織(主権)が確立され、他国と関係を取り結ぶ能力があるのであれば、国際法上『国家』として認められることになります。
日本では、毎年2月11日が『建国記念の日』として定められており、
「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として『国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)』で制定されています。
ちなみに、「建国をしのび」というのは、「建国されたことを懐かしい気持ちで思い返す」ということです。
2022年の「建国記念の日」はいつ?
2022年(令和4年)の「建国記念の日」は、
『2月11日(金)』となりますので、土日と合わせて3連休になります。
ところで、不思議に思っている方もいらっしゃると思いますが、日本では「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」となっており、言葉の間に「の」が入っています。
「建国記念日」と「建国記念の日」というこの2つの言葉には何か違いがあるのでしょうか。
建国記念日と建国記念の日の違いとは?なぜ「の」が入る?
「建国記念日」と「建国記念の日」は、言い方が違うだけで同じ意味では?と思ってしまいますが、実は若干の違いがあります。
- 「建国記念日」は、
『建国の日付が定かであり、その日を建国日として記念する日』 - 「建国記念の日」は、
『建国の日付が定かではないけれども、建国したことを記念する日』
という意味があります。
このことから、日本では、建国の日付がはっきりとしていないため、「建国記念の日」として制定されているわけです。
しかし、ここで疑問に思うのが、「2月11日」は何を由来としているのかですが、それは「建国記念の日」の由来で解説していきます。
建国記念の日の由来とは?
「建国記念の日」は、1966年(昭和41年)に定められた祝日なのですが、
1948年(昭和23年)までは「紀元節(きげんせつ)」という名の祝日でした。
紀元節とは
「紀元節」とは、
『初代天皇とされる神武天皇(じんむてんのう)の即位日を元に定められた祝祭日』のことです。
「紀元節」は、かつての法律である「太政官布告(だいじょうかんふこく)」によって1873年(明治6年)に定められていました。
祝祭日については、下記の「祭日と祝日の違いとは?」の記事で解説していますので、よろしければご覧ください。
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神武天皇は、日本最古の歴史書とされる『古事記』や『日本書紀』に登場にする人物で、太陽神である「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の※末裔(まつえい)とされていますが、実際に存在したのかは定かではありません。
※末裔とは、血の繋がりがある血族のことです。
紀元節が2月11日に制定された理由
奈良時代(740年頃)に完成したとされている『日本書紀』によると、神武天皇は紀元前660年1月1日に初代天皇として即位したと記されています。
そのため、政府は1月1日を紀元節としたかったわけですが、旧暦明治5年12月3日から新暦へと変わることが決まっていたことから、旧暦で明治6年1月1日は、新暦だと1月29日にあたるため、当初は1月29日を「紀元節」にすることが決定していたそうです。
【旧暦】 | 【新暦】 |
明治5年12月2日 | 1872年12月31日 |
(明治5年)12月3日 | 1873年(明治6年)1月1日 |
(明治5年)12月4日 | 1873年(明治6年)1月2日 |
~省略~ | ~省略~ |
(明治5年)12月30日 | 1873年(明治6年)1月28日 |
(明治6年)1月1日 | 1873年(明治6年)1月29日 |
しかし、国民の間で、紀元節は旧暦の1月1日を祝う日との誤解が生じたことや、翌日の1月30日が孝明天皇(こうめいてんのう)の命日であったこともあり、改めて2月11日を紀元節とすることを決めたとされています。
紀元節が2月11日に定められた理由としては、紀元前660年1月1日を新暦に換算すると、2月11日と推定できるからだそうですが、科学的かつ正確な算出の仕方ではなかったようです。
「紀元節」はGHQの意向により廃止
「紀元節」は国民に対し、
『天皇は日本を作った正式な神様の子孫※「現人神(あらひとがみ)」であり、その天皇を中心として国を治める国家は正当である』
ということを示すために制定された祝祭日です。
※現人神とは、人の姿をした神様を意味しています。
そして、明治政府によって、国民よりも天皇を中心とした国家を尊重する国家主義が進められることになります。
特に学校教育の場で、
『主君のために忠義を尽くし、国を愛することが最も大切なことである』と徹底的に教え込まれた結果、次第に日本は超国家主義へと変わっていくこととなりました。
その後、第二次世界大戦終結にあたり、日本を占領していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって、天皇の神聖性排除と非軍事化を目的として「紀元節」は廃止されることになり、急速に民主化が進められることになったのです。
紀元節から建国記念の日へ
1948年(昭和23年)に廃止された「紀元節」でしたが、1952年(昭和27年)になると、再び「紀元節」を復活させようとの運動が行われるようになりました。
しかし、「紀元節」の復活に関しては賛否両論あったため、国会で廃案と再提案を繰り返し、廃止から18年後の1966年(昭和41年)に「建国記念の日」として新たに制定されたと言われています。
「建国記念日」ではない理由としては、
書物に登場する神武天皇が実在していたのかも、即位した日が正しいのかも分からないためです。
日本国を建国したとされている神武天皇(じんむてんのう)とは
神武天皇は、現在でいうと宮崎県と鹿児島県の一部を占めた場所にあたる、「日向国(ひむかのくに・ひゅうがのくに)」で生まれたとされていて、父は「鸕鶿草葺不合尊天皇(うがやふきあえずのみこと)」、母は 「玉依姫(たまよりひめ)」とされています。
そして神武天皇は、初代天皇として即位する以前は、
「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」と呼ばれていました。
ちなみに、「神倭伊波礼毘古命」という名は『古事記』に記されている名の一つで、他にも様々な呼び名があります。
神武天皇の系譜(けいふ)
神武天皇と天照大神のつながりを考えると、次のような関係となります。
① | 「天照大神(あまてらすおおみかみ)」と「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」の※誓約(うけい)により生まれる。 ※誓約とは、呪術的裁判のことです。 | |
神武天皇の高祖父 | 男神 『天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)』 | |
② | 父「天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)」と、母「栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)」より生まれる。 | |
神武天皇の曽祖父 | 男神 『瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)』 | |
③ | 父「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」と、母(山の神の娘)「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」より生まれる。 | |
神武天皇の祖父 | 男神 『火折尊(ほおりのみこと)』 | |
④ | 父「火折尊(ほおりのみこと)」と、母(海の神の娘)「豊玉姫(とよたまひめ)」より生まれる。 | |
神武天皇の父 | 男神 『鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)』 | |
⑤ | 父「鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」と、母(海の神の娘)「玉依姫(たまよりひめ)」より生まれる。 | |
神武天皇 | 男神 『神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)』 |
神武天皇が即位するまでの経緯(神話)
神武天皇が天皇に即位し、国を治めるまでには様々な神話の流れがありますので、分かりやすく紹介していきたいと思います。
①イザナギとイザナミの国産み
男神である「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」と、女神である「伊邪那美命(いざなみのみこと)」は、※「高天原(たかまがはら)」に住む神々の指示で地上に降り、日本列島を構成する島々を生み出し、そこでたくさんの神々も生み出しました。
※高天原とは、天上にあるとされる世界のことです。
このようにイザナギとイザナミによって生み出された地上世界は、「葦原中国(あしはらのなかつくに)」と呼ばれるようになります。
その後も国造りを続けたイザナミとイザナギでしたが、不幸なことにイザナミが火の神を生んだ際にひどい火傷を負い、亡くなってしまいます。
イザナギは悲しみのあまり、黄泉国(よみのくに)までイザナミを連れ戻しに行きますが、時はすでに遅く、イザナギはイザナミの変わり果てた姿を目にしたことで、恐れおののき、葦原中国まで逃げ帰ってきてしまいました。
そして、黄泉国の穢れを落とすためにイザナギが水に入って禊(みそぎ)を行うと、そこから様々な神が生まれたとされています。
一番最後に左目を洗った際には太陽の女神である『天照大神(あまてらすおおみかみ)』が、右目を洗った際には月の神様である『月読命(つくよみのみこと)』が、鼻を洗った際には荒ぶる神などと言われる『建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)』が生まれたとされています。
②オオクニヌシの国造り
アマテラスが洞窟に隠れてしまったとされる『天の岩戸(あまのいわと)』の一件で、その原因となったスサノオは、高天原から追放されてしまいます。
このことは、天上の神「天津神(あまつがみ)」であったスサノオが、地上の神「国津神(くにつかみ)」へと変わる要因となりました。
その後、葦原中国の出雲の国に降りたスサノオは、ヤマタノオロチに狙われている美しい女神「櫛名田比売(くしなだひめ)」と出会い、ヤマタノオロチ退治を行うことで、クシナダヒメと結婚することになります。
スサノオがヤマタノオロチを退治した際、ヤマタノオロチの尾から出てきたとされる「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」は、スサノオによってアマテラスに献上されました。
1.オオナムチの誕生
時が経ち、スサノオの6世の孫とされる「大己貴命(おおなむちのみこと)」が生まれました。
オオナムチは大変美男子で女性からの人気が高かったため、そのことで兄弟達の反感を買ってしまい、2度も兄弟達によって殺されてしまいます。
そのため、一度目は 『造化三神(ぞうかさんしん)』の一人とされる 「神産巣日神(かみむすびのかみ)」に、二度目は母の「刺国若比売(さしくにわかひめ)」に生き返らせてもらったオオナムチでしたが、さすがにもう殺されるわけにはいかなので、スサノオに助けてもらいに行くことになります。
2.スサノオの試練を乗り越えたオオナムチ
スサノオの城についたオオナムチは、そこでスサノオの娘「須勢理毘売命(すせりびめのみこと)」と出会い、お互い一目で恋に落ちてしまいます。
オオナムチは、スセリビメとの結婚を許してもらうため、スサノオの厳しい試練を受けることになりますが、スセリビメの助けもあり、3回の試練をなんとか乗り越えることができました。
しかし、4回目の試練の途中にスサノオが眠ってしまったため、オオナムチはスサノオの髪を柱にくくり付けて扉の前に大きな岩を置いたうえ、スサノオの太刀と弓矢、琴を盗み、スセリビメも連れて逃亡することを選びます。
スサノオは途中で目を覚ましてオオナムチが逃亡したことに気付き、二人を追いかけましたが、追いつけないことが分かると、とうとう二人の結婚を認めることにしました。
そして、スサノオはオオナムチに対し、太刀と弓矢で兄弟達(八十神)に立ち向かい、スセリビメを正妻にして、これからは「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と名乗って国造りをすることを指示したのです。
③天津神へ国譲り
オオクニヌシ(オオナムチ)は、無事に八十神達を退治した後、「少名毘古那神(すくなびこなのかみ)」と「大物主神(おおものぬしのかみ)」と出会い、一緒に国造りをやり遂げます。
しかし、本来天津神が統治するはずだった「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を、国津神であるオオクニヌシが統治していることをアマテラスはあまり快く思いませんでした。
そこで、国を統治する権利をオオクニヌシから譲ってもらうため、高天原から2度に渡って使者を送りますが、簡単に国を譲りたくないオオクニヌシの策略により失敗に終わってしまいます。
そのため、最終手段として雷の神であり、剣の神とされる「建御雷神(たけみかづちのかみ)」 と神の船という意味の名を持つ「鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)」を送ったところ、出雲にオオクニヌシを祀る社を建てることを条件に、オオクニヌシから国を譲ってもらうことに成功したのです。
④アマテラスの孫ニニギノミコトが降臨
葦原中国をオオクニヌシから譲ってもらうことが正式に決まったため、高天原からアマテラスの孫である「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が地上に降りて国を治めることになりました。
その際、ニニギノミコトは、アマテラスから『三種の神器(さんしゅのじんぎ)』と言われている宝物「八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を譲り受けます。
ニニギノミコトは、国津神である「猿田毘古神(さるたびこのかみ)」の道案内により高千穂(たかちほ)に降臨し、そこを拠点として宮殿を建て、「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」を妻として迎えることになりました。
彼女を妻として迎える際、姉の「石長比売(いわながひめ)」もと、彼女の父のはからいで一緒に嫁いできました。
しかし、顔がブサイクだからという理由でニニギノミコトが追い返したところ、『コノハナノサクヤビメは、花のように繁栄しますように、イワナガヒメは、岩のように永遠のものとなりますように』との誓約を立ててニニギノミコトに送ったものだとし、イワナガビメを送り返したせいで、ニニギノミコトは天津神でありながら寿命が生まれ、それは末裔まで続くこととなったとされています。
⑤カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の東征
ニニギノミコトの孫にあたる「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」は、彼が45歳の時、兄の「彦五瀬命(いつせのみこと)」と共に葦原中国を治めるためにはどこに行けば良いのか話し合った結果、国の中央に都を置くのが良いとして日向国(ひむかのくに)を出て東へ向かうことにします。
イワレビコ一行は、豊国(とよのくに)の宇沙(うさ)を通り、筑紫国(つくしのくに)の岡田宮(おかだぐう)で1年、安芸国(あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国(きびのくに)の高島宮(たかしまのみや)で8年過ごした後、亀に乗った国津神の案内で浪速国(なみはやのくに)に到着したとされています。
※豊国は「大分県」・筑紫国は「福岡県」・安芸国は「広島県」・吉備国は「岡山県」・浪速国は「大阪府」です。
1.兄イツセの死と天津神からの助け
浪速国の白肩津(しらかたのつ)に到着すると、「那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)」率いる軍勢が待ち構えており、兄のイツセは矢で腕を打たれてしまいます。
太陽に向かって戦うのは太陽神の末裔である自分達には不利だと悟ったイワレビコ達は、一度退却し、どうにか紀伊国(きいのくに)着くことができましたが、血が止まらなかった兄はそこで力尽きてしまいました。
※紀伊国は、「和歌山県と三重県南部の地域」です。
その後、タケミカヅチの命により出向いた「高倉下(たかくらじ)」によって助けられたイワレビコは、タケミカヅチより「布都御魂(ふつのみたま)」と呼ばれる太刀を授かります。
加えて『造化三神(ぞうかさんしん)』の一人である「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」の命により訪れた「八咫烏(やたがらす)」の案内で、熊野(くまの)から吉野の川辺を経て大和(やまと)の宇陀(うだ)に到着するのです。
※熊野は「三重県」・吉野は「奈良県の南部」・大和は「奈良県」です。
2.エウカシを討伐して宇陀平定
宇陀には、「兄猾(えうかし)」と「弟猾(おとうかし)」という兄弟が住んでおり、弟のオトウカシは素直にイワレビコの配下に加わったものの、兄のエウカシは配下に加わる気などなく、直接戦うのは不利だと諦め、罠を仕掛けた宮殿を造り、そこにイワレビコを招いて暗殺しようと試みます。
しかし、弟の密告によりエウカシ計画が明らかになったため、イワレビコの強力な仲間である「道臣命(みちおみのみこと)」と「大久米命(おおくめのみこと)」がエウカシの元を訪れ、エウカシに向かって「お前が先に入ってみろ」と太刀と弓で脅したため、エウカシは自分の仕掛けていた罠によって死ぬこととなりました。
こうして、エウカシの死により、イワレビコは宇陀の平定(へいてい)に成功します。
※平定とは、敵や悪者を倒して、世を鎮めることを言います。
3.ツチグモとヤソタケルの討伐
イワレビコ一行は宇陀の平定後、忍坂(おさか)の大室(おおむろ)に向かいました。
※忍坂は「奈良県桜井市」です。
しかし、そこにはしっぽを持つ種族である「土雲(つちぐも)」という荒くれ者の※土豪(どごう)と、その頭「八十梟帥(やそたける)」がおり、イワレビコが到着するのを洞穴(ほらあな)で待ち構えているとの情報をヤタガラスが持ってきます。
※土豪とは、特定の土地を支配する一族のことです。
そこでイワレビコは、料理でもてなすふりをして洞穴からツチグモ達をおびき寄せる作戦を思いつきます。
イワレビコがヤソタケルとツチグモ達を友好の証にと食事に招待すると、不信感を抱きながらも全員洞穴から出てきたので、イワレビコは計画どおりに歌を詠んだところ、その歌を合図に料理人に扮したたくさんの兵士達が一斉にヤソタケルとツチグモ達に斬りかかり、あっという間に討伐してしまいました。
4.兄のかたきナガスネヒコとの決戦とニギハヤヒノミコト
遂にイワレビコは、兄のかたきを討つため、生駒山(いこやま)を超えてナガスネヒコのいる鳥見の里(とみのさと)までやってきたところ、そこにはナガスネヒコが軍と共に待ち構えていました。
イワレビコとナガスネヒコの戦いが始まり、連戦するもなかなか決着がつかなかったその時、金色に輝くトビが現れてイワレビコの弓先にとまると、トビから稲光のような凄まじい光がナガスネヒコの軍に向けて発せられたことで、敵軍は目をやられて混乱し、戦意を喪失してしまいます。
このトビは、イワレビコを助けるために高天原から送られた使者であったのです。
そうして戦いに破れたナガスネヒコは、『自分は「邇芸速日命(にぎはやひのみこと)」という天津神に仕えており、天の磐船(あめのいわふね)に乗り、天からやってきたニギハヤヒが本当の天津神であり、高天原から二人も天津神を降ろすことはありえないとして、あなたは偽の天津神だ』とイワレビコに使者を送って伝えました。
そして、その証拠としてニギハヤヒが持っていたとする天の子の証である「あまつのしるし」を提示したため、イワレビコも正当性を示すため、ニニギノミコトが授かったとされる「天の羽羽矢(あめのははや)」と「歩靫(かちゆき)」を提示すると、ナガスネヒコはイワレビコを天津神と認めざるを得なかったようです。
5.ニギハヤヒノミコトの帰順とイワレビコの天皇即位
その後、ナガスネヒコの主君であるニギハヤヒがイワレビコの元を訪れ、自分は天津神の子が葦原中国を治めるために天降ったと聞き、その後を追って降りてきた天津神だと説明し、正当性が認められたイワレビコに服従することを誓いました。
そして、自分の持っていた神宝をイワレビコに献上します。
一方、ナガスネヒコは、ニギハヤヒに説得されるも、まだ戦を続けようとしていたことから、ニギハヤヒによって殺されることになりました。
こうして、ニギハヤヒを自分の元に帰順させ、大和を平定しまわったイワレビコは、畝火(うねび)の橿原(かしはら)に宮(皇居)を置き、イワレビコが52歳の時、初代神武天皇として即位したとされています。
※畝火は、奈良県の畝傍山(うねびやま)周辺のことです。
【2022年】日本は何歳?(建国から何年目?)
神武天皇が即位したのは、紀元前660年1月1日とされていますので、その日からが日本の始まりと考えると、
2022年(令和4年)2月11日で日本は『2682歳(年)』を迎えることになります。
世界の建国記念日
日本は、神武天皇の時代から皇族が現在も続いており、戦争に負けることはありましたが、国も滅ぼされることなく存続したため、世界最古の国家と言われています。
実際に神武天皇が存在したのかは定かではないので、正確な年数は分からないわけですが、王権の象徴とされる前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)といった建造物などから推測すると、少なくとも1700年は続いていると言えるようです。
それでは、世界の「建国記念日」をいくつか紹介していきます。
ちなみに、他国から植民地として統治されていた国は、統治から開放されて独立した日を「独立記念日」とし、新たな国の出発としてお祝いしていることが多いです。
アメリカ合衆国(独立記念日)
アメリカ合衆国は、『7月4日』を「独立記念日」として制定しています。
独立記念日の由来
アメリカの独立記念日は、「アメリカ独立宣言」に署名が行われた日である7月4日を由来としています。
1775年4月19日、イギリスの植民地になっていた北アメリカの13植民地が、イギリスに対抗してアメリカ独立戦争をおこし、その翌年の1776年7月4日に大陸会議を行って「アメリカ独立宣言」を行いました。
アメリカ独立宣言の内容としては、イギリスによる悪政の告発と、生命・自由・幸福を追求する権利や国民主権を訴え、13植民地の独立を宣言するものです。
そして、1781年のヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させることに成功し、1783年の「パリ条約」によって戦争の終結が行われ、アメリカは正式にイギリスから独立することとなりました。
ちなみに、自由の女神像はアメリカの独立100周年をお祝いしてフランスから贈られたもので、左手には「独立宣言書」を持っているよ
中華人民共和国(国慶節)
中華人民共和国(中国)は、『10月1日』を「中華人民共和国国慶節(ちゅうかじんみんきょうわこくこっけいせつ)」として制定しています。
国慶節の由来
中国の国慶節は、1949年10月1日に「毛沢東(もうたくとう)」が天安門広場にて行った「中華人民共和国の建国宣言」が由来となっています。
それまで中国は、中華民国国民政府(中国国民党)が治める「中華民国」という国でしたが、蒋介石(しょうかいせき)率いる国民革命軍(中国国民党)と、毛沢東率いる紅軍(中国共産党)で行われた内戦(国共内戦)で、毛沢東率いる紅軍が勝利したことで、中華民国から中国共産党が治める中華人民共和国へと変わることになりました。
そして、内戦に敗れた中国国民党政府は、中国が統治していた台湾へと逃げて台湾に国家を置いたため、結果的に中国は大陸の中華人民共和国と、台湾の中華民国という分断国家になったと言われています。
韓国(光復節)
韓国は、『8月15日』を「光復節(こうふくせつ)」として制定しています。
光復節の由来
韓国の光復節は、1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受託して降伏を発表した日を由来としています。
日本が戦争での負けを認め、ポツダム宣言を受託したことは、日本の植民地となっていた韓国にとっては「日本の統治からの開放」を意味していました。
そのため、暗黒であった統治時代からの独立を果たし、光が再び戻ったという意味で「光復節」と名付けられているそうです。
フランス共和国(フランス革命記念日)
フランス共和国は、『7月14日』を「フランス革命記念日」(フランス建国記念日)として制定しています。
フランス革命記念日の由来
フランスのフランス革命記念日は、『フランス革命』の始まりとされる1789年7月14日の「バスティーユ襲撃」事件が由来となっています。
フランス革命は、宮廷貴族と高級聖職者から絶対的権力を奪い、国民の自由・平等・権利を実現させるための市民革命のことです。
バスティーユ襲撃を発端に、封建的特権の廃止や人権宣言、憲法制定などを実現させ、共和国への道を切り開いたことから、フランスでは革命記念日として制定されています。
ドイツ連邦共和国(ドイツ統一の日)
ドイツ連邦共和国は、『10月3日』を「ドイツ統一の日」として制定しています。
ドイツ統一の日の由来
ドイツのドイツ統一の日は、1990年10月3日に東と西に分断していたドイツが再統一をしたことを記念して定められています。
ドイツは、第二次世界大戦に敗れた後、ソビエト連邦・イギリス・フランス・アメリカの連合国によって占領されていました。
その後、ドイツはソ連が統治する「東ドイツ」と、アメリカ・フランス・イギリスが統治する「西ドイツ」に分断されることになりましたが、東ドイツに位置した首都ベルリンの西側地域だけは西ドイツという扱いになります。
ベルリンの壁の破壊
時代と共に、社会主義の東ドイツと資本主義の西ドイツの経済格差が大きくなっていったことで、東ベルリンから西ベルリンを経由して、西ドイツへ亡命する人が激増したため、亡命を防ぐ目的で西ベルリン(首都ベルリンの西側)を取り囲むように一夜にして壁が築かれたと言われています。
ベルリンの壁は、1961年8月13日から約28年間築かれていましたが、「東ドイツからの出国をただちに認める」との放送を受けて、1989年11月9日にベルリン市民の手によって破壊されます。
そして、壁が破壊された翌年の1990年10月3日に東ドイツが西ドイツに統合するかたちで統一を果たすことになったのです。
当初はベルリンの壁が破壊された11月9日を祝日に指定していたそうですが、11月9日は「ミュンヘン一揆(いっき)」や「水晶の夜」と言われる忌まわしい事件が起こった日ということで、正式に統一を果たした10月3日を建国記念日に決めたと言われています。
建国記念日を英語で表現すると?
建国記念日は、英語で次のように表現されています。
『National Foundation Day(ナショナル・ファンデーション・デイ)』
※「National」は「国家的・国民的」など、「Foundation」は「設立・基盤」といった意味があります。
ちなみに、アメリカの独立記念日は英語で「Independence Day(インデペンデンス・デイ)」と言います。
まとめ:建国記念日は、国家として確立したことをお祝いする日
- 日本は建国の日が定かではないため、「建国記念の日」として制定している
- 建国記念の日は、かつては初代神武天皇の即位日を元に定められた「紀元節」という祝祭日だった
- 2022年(令和4年)の建国記念の日は、2月11日(金)
- 2月11日は神武天皇の即位日とされる紀元前660年1月1日を新暦に変換した日
- 日本は建国されてから2022年(令和4年)で「2682年目」となる
いかがでしたでしょうか。
神武天皇が実際に存在したのかは定かではありませんが、日本は天皇と共に遥か昔から続いてきた世界最古の国家だということが分かりました。
ちなみに、国にとって最も記念すべき日のことを「国家の日(ナショナル・デー)」といい、多くの国では「建国記念日」や「独立記念日」を国家の日としていますが、日本では「天皇誕生日」を国家の日としています。
世界各地には、「王(キング)」と呼ばれる方が多数いらっしゃいますが、現在「皇帝(エンペラー)」と呼ばれるのは、日本の天皇陛下ただ御一人だけです。
国際社会においては、王よりも格式が高いとされるのが皇帝であるため、日本の天皇が一番地位が高いと思われがちですが、そもそも他国の王と日本の天皇の地位を比べることはできません。
しかし、王室関係者の間では、長い歴史を持つ日本の天皇は大変尊敬されており、最上位として扱われています。
世界的に地位の高いイギリスのエリザベス女王であっても、天皇陛下に対しては敬意を払い、自ら一歩を踏み出して握手されたほどです。
これは、他の王室の方々には通常行わない大変貴重な行動であったと言われています。
日本の「象徴」とされる天皇が、他国からも尊敬されているというのは、日本国民である私達にとっても大変喜ばしいことでありますね。
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