皆さんは、「論語」とは何かご存じでしょうか。
「子曰く・・・」と始まる言葉が有名で、中学や高校で習った記憶もあるかと思います。
しかし、漢文ということもあり、苦手意識からあまり覚えていないという方が多いのではないでしょうか。
難しいと思われがちな論語ですが、道徳を学ぶ上でも再注目されており、人間社会においてとても為になる「孔子の名言集」と言われています。
そこで、この記事では、
- 「論語」とは
- 「孔子」とは
- 「論語」を構成する20編とは
- 「論語」の「仁・義・礼・智・信」の意味
- 人生の為になる「孔子の名言集」オススメ5選
- 「論語」が由来になった四字熟語・年齢を表す言葉
- 「論語読みの論語知らず」の意味とは
- 小中学生におすすめな「論語本」
について、分かりやすく解説・紹介していきます。
論語とは?
「論語(ろんご)」とは、
『「孔子(こうし)」と、孔子の「高弟(こうてい)」達の言葉や行動を、孔子の死後に残された弟子(でし)達が約400年かけて記録した書物』のことです。
※高弟とは、弟子の中で特にすぐれた者のことを言います。
また、「論語」は、儒教の「四書(ししょ)」の一つとされています。
四書とは
四書とは、儒教においての「重要な経典」とされる4つの書物のことを言います。
『論語』・『大学(だいがく)』・『孟子(もうし)』・『中庸(ちゅうよう)』が4つの書物とされ、この四書全てが「孔子の思想」が基礎となり、弟子達によって深められ、作られていったものになります。
いったい孔子とは、どのような人物だったのでしょう。
孔子とは
孔子は、春秋時代末期(紀元前551年頃~紀元前479年頃)の中国の思想家(哲学者)とされ、キリスト・釈迦(しゃか)・ソクラテスと並ぶ『四聖人(しせいじん)』の一人とされており、儒教の開祖でもあります。
※聖人とは、知識と道徳が優れている理想的な人物のことを言います。
孔子には、約3000人もの弟子がいたとされ、特に才能が高いとされた約70人の弟子達は「七十子(しちじっし)」と呼ばれていました。
その「七十子」の中でもさらに優れた10人の弟子は、高弟として「孔門十哲(こうもんじってつ)」または、「四科十哲(しかじってつ)」と呼ばれたそうです。
孔子の生い立ち
孔子は公族の家系に生まれましたが、家はとても貧しく、父は3歳の頃、母は17歳の頃に亡くなったことで、孤児として育ちます。
※公族とは、皇族に準ずる権力を与えられていた一族のことを言います。
孔子は青年期の頃、母が祈祷師(きとうし)であった影響を受け、知識を職にして生きていくことを決心し、古来の礼法を学ぶため、各地を訪れては知識人に会いに行っていたそうです。
28歳頃には魯国(ろこく)に仕えることとなり、倉庫や牧場の管理者として勤めながら、知識を深め、知識人としての評判が広がったことで、35歳の頃には初めて弟子をとることとなったと言われています。
孔子が36歳の頃、魯国の第23代君主であった昭公(しょうこう)が、公族であった季孫意如(きそんいじょ)を攻めるクーデターを起こしましたが失敗に終わったことで、斉国(せいこく)へと国外追放となり、孔子も斉国へと一時的に逃れることとなりました。
その後、魯国へ戻った孔子でしたが、しばらく役人の仕事よりも弟子を取ることに専念し、教育に努めることとなります。
50歳を過ぎた頃、昭公の弟であった定公(ていこう)によって中都の宰(長官)に任命されたのち、孔子は「大司冦(だいしこう)」となりました。
※大司冦とは、警察や裁判といった司法を司る最高責任者のことを言います。
孔子は実権を握ったことで、政治を改革する様々な政策を試みましたが、失敗に終わり、ついには家臣達が、隣国の斉国から贈られた美女にうつつを抜かすようになったため、孔子は魯国を去ることを決意します。
孔子が55歳の時、弟子達と共に諸国巡遊の旅に出掛け、布教活動をしながら、権力や刑罰に頼った政治ではなく、「礼儀」や「道徳」といった社会秩序ある政治を行ってくれる君主を探しましたが、結局見つけることができませんでした。
13年間の流浪の旅を終え、69歳の時再び魯国へと戻った孔子でしたが、政治顧問として助言は許されても、全く意見は聞き入れてもらえなかったとされています。
その後、政界での活動を諦めた孔子は、古典整理を始め、「書経」や「詩経」といった書物の編纂(へんさん)を行ったり、弟子の育成に専念したりと、74歳でこの世を去るまで、理想社会実現のため尽力したと言われています。
※編纂とは、多くの材料を集め、またはそれに手を加えて書物にまとめることを言います。
論語の全文(512の短文)をまとめた20編とは
孔子の死後、弟子達が孔子の思想(儒教)から教団を作って儒家となったのち、孔子の教えを残すため、やり取りをまとめた512の短文を編纂(へんさん)し、20編にまとめて「論語」を作ったとされています。
※文の区切り方で、512ではないとするものもあります。
大きく20編に分けられていますが、編ごとにテーマが決められているわけではなく、編の題名も、各章の文の最初の2文字または3文字から付けられた名前となっています。
しかしながら、編によって内容の偏(かたよ)りがありますので、それぞれ説明していきます。
①学而(がくじ)第一
『学而第一』は、次の文から始まります。
(学而第一・1章)
子曰。學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く。学びて時に之(これ)を習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り遠方(えんぽう)より来たる、亦(また)楽しからずや。人知らずして慍(いきど)おらず、亦(また)君子(くんし)ならずや。
【現代語訳(和訳)】
孔子は言いました。学んだことを繰り返し復習して身につけていくことは、なんと楽しいことでしょう。友人が遠方よりわざわざ私のために会いに来てくれるのは、なんと嬉しいことでしょう。自分のことを人が認めてくれなくても不平不満を言わなのは、立派な人ではないだろうか。
【解説】
この文は、学問を学ぶにあたっての過程を表したものとされています。
最初に、学問を学ぶ喜び、次に友と切磋琢磨しながら成長する楽しさ、最後に、君子(学識・人格がともに優れた立派な人)としての心構えとなっています。
「学而第一」は、全部で16章まであり、『学問』についての記載が多いとされています。
ちなみに、「子曰く」を「し・いわく」と読む場合と、「し・のたまわく」と読む場合がありますが、どちらも間違いではありません。
明治以前は、孔子の言った言葉の場合「し・のたまわく」と読まれていたようですが、明治45年になり、漢文を日本語に置き換えて読む際には、尊敬語は日本の皇室以外には用いないことと決められたことにより、「し・いわく」という読み方が定着したと言われています。
②為政(いせい)第二
『為政第二』は、次の文から始まります。
(為政第二・1章)
子曰。為政以德、譬如北辰居其所、而衆星共之。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く。政(まつりごと)を為すに徳を以(もっ)てす、譬(たと)えば北辰(ほくしん)の其(そ)の所に居て、衆星(しゅうせい)のこれを共(むか)うが如し。
【現代語訳(和訳)】
孔子は言いました。徳を持って政治を行うことは、例えば北極星がその場所に留まり、多くの星が北極星に向かって動くようなものであると。
【解説】
この文は、徳による政治を行うことで、行った政治者に人々が心より尊敬の念をいだき、慕(した)うようになるという解釈がされています。
「為政第二」は、全部で24章まであり、『政治』についての記載が多いとされています。
③八佾(はちいつ)第三
『八佾第三』は、次の文から始まります。
(八佾第三・1章)
孔子謂季氏。八佾舞於庭。是可忍也、孰不可忍也。
【書き下し文】
孔子(こうし)、季氏(きし)を謂(い)う、八佾(はちいつ)庭(てい)に舞(ま)わす。是(これ)をも忍(しの)ぶべくんば、孰(いず)れをか忍ぶべからざらん。
【現代語訳(和訳)】
孔子は季氏を叱(しか)り言いました。八佾の舞を自宅の庭で踊らせるとは、このことを許すことができるのならば、他のいかなることも許せないことはないだろう。
【解説】
この文は、本来君主(皇帝)に対して行う舞を、身分をわきまえず、踊らせたことから、分をわきまえ(自分の立場を認識して)、礼を重んじて(礼儀を大切にして)、人の器を大きくしなさいという解釈がされています。
「八佾第三」は、全部で26章まであり、『礼儀・音楽(礼楽)』についての記載が多いとされています。
④里仁(りじん)第四
『里仁第四』は、次の文から始まります。
(里仁第四・1章)
子曰。里仁爲美。擇不處仁、焉得知。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く。里(り)は仁(じん)なるを美(よ)しと為(な)す。択(えら)んで仁に処(お)らずんば、焉(いずく)んぞ知なるを得ん。
【現代語訳(和訳)】
孔子は言いました。村は仁徳(思いやりの心)を持った人が多く住んでいるところが良い。そういった所を選んで住まない者は、どうして智が得られようか。
【解説】
こちらの文章は、特に様々な解釈がされている文になります。
どの解釈が正しいということではありませんので、自分の納得できる解釈を探してみて下さい。
一例をあげるとすると、仁徳(思いやりの心)が何より大切ことだ。自分の利益のために仁徳を大切にしない人は、道理のある人(賢い人)にはなれないという意味があります。
「里仁第四」は、全部で26章まであり、『仁徳』についての記載が多いとされています。
⑤公冶長(こうやちょう)第五
『公冶長第五』は、次の文から始まります。
(公冶長第五・1章)
子謂公冶長。可妻也。雖在縲絏之中。非其罪也。以其子妻之。子謂南容。邦有道不廃。邦無道免於刑戮。以其兄之子妻之。
【書き下し文】
子(し)、公冶長(こうやちょう)を謂(い)う。妻(めあわ)すべきなり。縲紲(るいせつ)の中(うち)に在りと雖(いえど)も、其(そ)の罪に非(あら)ざるなりと。其の子(こ)を以(もっ)て之(これ)に妻(めあわ)す。
【現代語訳(和訳)】
孔子が、公冶長について言いました。公冶長は妻をもらう資格がある。誤解により投獄された身であるが、彼は罪を犯してはいないのだから。そう言って孔子は自分の娘を嫁がせました。
【解説】
この文は、他人の評価に流されたり、世間体を気にしたりするのではなく、自分自身で判断を行い、正しいと思ったことは信念に基づいて決断するべきといった解釈がされています。
「公冶長第五」は、全部で28章まであり(全部で27章とするものもあります。)、『道理』(人として行うべき正しい道)についての記載が多いとされています。
⑥雍也(ようや)第六
『雍也第六』は、次の文から始まります。
(雍也第六・1章)
子曰。雍也可使南面。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く。雍(よう)や南面(なんめん)せしむべし。
【現代語訳(和訳)】
孔子は言いました。雍(よう)は、国を治める君主に相応しい器量がある。
【解説】
弟子の冉雍(ぜんよう)は、身分が低い出身で、消極的であったものの、孔子に才能を認められていた人物でした。
君主に相応しい人格を磨くことの大切さを説く解釈がされています。
「雍也第六」は、全部で30章まであり(全部で28章とするものもあります。)、『人物評論』についての記載が多いとされています。
⑦述而(じゅつじ)第七
『術而第七』は、次の文から始まります。
(術而第七・1章)
子曰。述而不作。信而好古。竊比於我老彭。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く。述(の)べて作らず。信じて古(いにしえ)を好む。竊(ひそ)かに我が老彭(ろうほう)に比(ひ)す。
【現代語訳】
孔子は言いました。私は、古来の礼法を伝えているだけで、新たに新説を創っているわけではありません。先人の古い教えを信じ、好んで広めようとしているのです。私は密かに老彭(ろうほう)のやり方を真似ているだけです。
【解説】
この文は、孔子が晩年に残した言葉とされています。
古い風習であったとしても、良い伝統は無くすことなく受け継いでいくべきだという解釈がされています。
「術而第七」は、全部で37章まであり、『孔子自身のこと・行動』に関する記載が多いとされています。
⑧泰伯(たいはく)第八
『泰伯第八』は、次の文から始まります。
(泰伯第八・1章)
子曰。泰伯其可謂至徳也已矣。三以天下讓、民無得而稱焉。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く。泰伯(たいはく)は其(そ)れ至徳(しとく)と謂(い)うべきのみ。三(み)たび天下を以(もっ)て譲(ゆず)る、民(たみ)得(え)て称(しょう)すること無し。
【現代語訳(和訳)】
孔子は言いました。泰伯は、最高の徳(すぐれた品性)を持った人でした。三度に渡り天下を譲りましたが、国民はそのことを知らず、泰伯を称えることができませんでした。
【解説】
この文は、君主(皇帝)の長男であった泰伯が、父の思いを察して、弟である三男に実権を譲ったことを賞賛している言葉になります。
父が、能力の高い三男の息子(孫)に後を継がせたいことを知った泰伯は、位の継承がスムーズにいくように、次男と共に身を隠すことを思いつきます。そして、三男に父の後を継いでもらうことで、ゆくゆくは三男の息子に実権を継がせる流れを作ったというわけです。
自分本位で権力争いを行うのではなく、国のため先を見越した正しい判断で身を引いたことを賞賛する内容となっています。
「泰伯第八」は、全部で21章まであり、『泰伯の賞賛・礼儀と音楽(礼楽)・聖人』に関する記載が多いとされています。
⑨子罕(しかん)第九
『子罕第九』は、次の文から始まります。
(子罕第九・1章)
子罕言利、與命與仁。
【書き下し文】
子、罕(まれ)に利を言う、命と与(とも)にし、仁(じん)と与(とも)にす。
【現代語訳(和訳)】
孔子は、利益について話しをするのはまれであり、必ず、運命や仁徳といった話しも一緒に行った。
【解説】
孔子は、損得を考えて自分の利益のためだけに行動する人を嫌っていたそうです。
自分の使命に従い、思いやりの心によって行動することが大切であると解釈がされています。
「子罕第九」は、全部で32章まであり(全部で30章とするものもあります。)、『孔子の言行や、仕事に関する方針』についての記載が多いとされています。
⑩郷党(きょうとう)第十
『郷党第十』は、次の文から始まります。
(郷党第十・1章)
孔子於郷黨、恂恂如也、似不能言者。其在宗廟朝廷、便便言、唯謹爾。
【書き下し文】
孔子、郷党(きょうとう)に於(おい)て、恂々如(じゅんじゅんじょ)たり、言うこと能(あた)わざる者に似たり。其の宗廟(そうびょう)、朝廷(ちょうてい)に在(いま)すや、便々(べんべん)として言い、唯(ただ)謹(つつ)しめり。
【現代語訳(和訳)】
孔子が地元にいる時は、控えめで、まるで物が言えない人のようでした。しかし、祭祀の場や朝廷にいる時では、すらすらと積極的に述べられましたが、いつも非常に謙虚な態度で臨まれていました。
【解説】
孔子は、故郷では目上の人を尊重して、立場をわきまえて話さず、仕事の場では、必要なことははっきりと伝えましたが、決して偉そうな態度はとらなかったと解釈されています。
その場その場で自分がとるべき態度や行動を考えるというのは難しいことですが、必要なことでしょう。
「郷党第十」は、全部で23章まであり(全部で18章とするものもあります。)、孔子が言った言葉はなく、『孔子のこと』について弟子達が語った記載が多いとされています。
⑪先進(せんしん)第十一
『先進第十一』は、次の文から始まります。
(先進第十一・1章)
子曰。先進於禮樂。野人也。後進於禮樂。君子也。如用之。則吾從先進。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く、先進(せんしん)の礼楽(れいがく)に於(お)けるや、野人(やじん)なり。後進(こうしん)の礼楽に於(お)けるや、君子なり。如(も)しこれを用うれば、則(すなわ)ち吾(われ)は先進(せんしん)に従わん。
【現代語訳(和訳)】
孔子は言いました。昔の礼や音楽は、庶民らしいものでした。今の礼や音楽は、洗練され貴族らしいものです。もし、どちらかを選ぶとするならば、私は昔のやり方に従うつもりです。
【解説】
この文では、洗練され、形式的な作法となってしまった礼や音学よりも、荒々しく無作法ではあるが、心のこもっている礼や音学の方が良いという解釈がされています。
「先進第十一」は、全部で26章まであり(全部で25章とするものもあります。)、『弟子についての人物評論』についての記載が多いとされています。
⑫顔淵(がんえん)第十二
『顔淵第十二』は、次の文から始まります。
(顔淵第十二・1章)
顏淵問仁。子曰。克己復禮爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己。而由人乎哉。顏淵曰。請問其目。子曰。非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動、顏淵曰。回雖不敏。請事斯語矣。
【書き下し文】
顔淵(がんえん)、仁(じん)を問う。子曰(しいわ)く、己(おのれ)に克(か)ちて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日(いちじつ)己(おのれ)に克(か)ちて礼に復(かえ)れば、天下仁に帰(き)す。仁を為すこと己に由(よ)る。而(しこう)して人に由(よ)らんや。
顔淵(がんえん)曰く、請(こ)う、其(そ)の目(もく)を問わん。子曰く、礼に非(あら)ざれば視ること勿(な)かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。
顔淵曰く、回(かい)、不敏(ふびん)なりと雖(いえど)も、請(こ)う、この語を事(こと)せん。
【現代語訳(和訳)】
顔淵(がんえん)が仁は何かと尋ねました。孔子は言いました。自分に打ち勝ち、礼に従うことが仁というものです。ほんの1日でも己に勝ち、礼に従うことができれば、誰であっても仁を実現することができます。仁を行うのは自分自身であり、他人に頼ってはいけません。
顔淵が言いました。どうか、その方法を教えて下さい。孔子が言いました。礼法でないことは見ないこと、聞かないこと、言わないこと、行わないことです。
顔淵が言いました。私は至らぬ者ではありますが、今のお言葉を実践したいと思います。
【解説】
この文は、「仁」について説明したものとなっています。
「仁」を得るためには、まず自分本位な考えを止め、相手を思いやる心(礼儀)を大切にし、失礼なことを「見ない・聞かない・言わない・行わない」ことが大切であるという教えになります。
「顔淵第十二」は、全部で24章まであり、『孔子と弟子との問答・仁・政治』についての記載が多いとされています。
⑬子路(しろ)第十三
『子路第十三』は、次の文から始まります。
(子路第十三・1章)
子路問政。子曰。先之勞之。請益。曰。無倦。
【書き下し文】
子路(しろ)、政(まつりごと)を問う。子曰(しいわ)く、これに先(さき)んじ、之(これ)を労(ねぎら)う。益(えき)を請(こ)う。曰く、倦(う)むこと無かれ。
【現代語訳(和訳)】
子路は、政治に必要なことについて尋(たず)ねました。孔子は言いました。何事にも率先して行い、他者を労(ねぎら)うことです。子路はさらに教えて欲しいと尋ねました。孔子は、途中で投げ出さず、最後までやり遂げなさいと答えました。
【解説】
人の上に立つ人は、誰よりも先を見据えて行動する必要があり、部下への思いやりの気持ち、配慮を怠ってはいけないと解釈することができます。
また、失敗したとしても、熱意を持って諦めないことが大切ということでしょう。
「子路第十三」は、全部で30章まであり、前半は『政治』について、後半は『善人・道徳』といった記載が多いとされています。
⑭憲問(けんもん)第十四
『憲問第十四』は、次の文から始まります。
(憲問第十四・1章)
憲問恥。子曰。邦有道穀。邦無道穀。恥也。
【書き下し文】
憲(けん)、恥を問う。子曰わく。邦(くに)道有れば穀(こく)す。邦道無くして穀するは、恥(はじ)なり。
【現代語訳】
原憲が、(役人としての)恥について尋ねました。孔子が言いました。国に道が有る時ならば国に仕え報酬(ほうしゅう)を貰(もら)っても構わないが、国に道が無い時であれば国に仕え報酬を貰うというのは、人として恥に値することです。
【解説】
国に道があるというのは、秩序ある政策が行われて、国民の生活が安定している状態を表しています。
やるべきことをきちんと行って、貰うべき報酬を受け取ることは正しいことですが、やることをやっていないのに、報酬を受け取るというのは、間違っていることであり、恥ずかしいことだと解釈することができます。
「憲問第十四」は、全部で46章まであり、『国・人物』についての記載が多いとされています。
⑮衛霊公(えいれいこう)第十五
『衛霊公第十五』は、次の文から始まります。
(衛霊公第十五・1章)
衞靈公問陳於孔子。孔子對曰。俎豆之事。則嘗聞之矣。軍旅之事。未之學也。明日遂行。在陳絶糧。從者病。莫能興。子路慍見曰。君子亦有窮乎。子曰。君子固窮。小人窮斯濫矣。
【書き下し文】
衛(えい)の霊公(れいこう)、陳(じん)を孔子に問(と)う。孔子対(こた)えて曰(いわ)く、俎豆(そとう)の事は則(すなわ)ち嘗(かつ)て之(これ)を聞(き)けり。軍旅(ぐんりょ)の事は未(いま)だ之を学ばざるなり。明日(めいじつ)遂(つい)に行(さ)る。
【現代語訳(和訳)】
衛の霊公が、兵法(戦陣)について孔子に尋ねました。孔子はこれに対して、祭祀の礼法については学びましたが、軍事についてはまだ学んだことがありません。と答え、翌日孔子は衛を去りました。
【解説】
孔子は、本当は軍事について詳しく知っていましたが、侵略を考えている隣国に加担できないということで、知らないふりをしたと解釈されています。思いやりの心を持ち、侵略といった戦争はやめましょうという意味があります。
「衛霊公第十五」は、全部で42章まであり(全部で41章とするものもあります。)『道徳』についての記載が多いとされています。
⑯季氏(きし)第十六
『季氏第十六』は、次の文から始まります。
(季氏第十六・1章)
季子將伐顓臾。冉有季路見於孔子曰。季氏將有事於顓臾。孔子曰。求。無乃爾是過與。夫顓臾。昔者先王以爲東蒙主。且在邦域之中矣。是社稷之臣也。何以伐爲。
冉有曰。夫子欲之。吾二臣者。皆不欲也。孔子曰。求。周任有言。曰。陳力就列。不能者止。危而不持。顛而不扶。則將焉用彼相矣。且爾言過矣。虎兕出於柙。龜玉毀於櫝中。是誰之過與。
冉有曰。今夫顓臾。固而近於費。今不取。後丗必爲子孫憂。孔子曰。求。君子疾夫舎曰欲之。而必爲之辭。丘也聞有國有家者。不患寡而患不均。不患貧而患不安。蓋均無貧。和無寡。安無傾。夫如是。故遠人不服。則脩文徳以來之。既來之。則安之。今由與求也相夫子。遠人不服。而不能來也。邦文崩離析。而不能守也。而謀動干戈於邦内。吾恐季孫之憂。不在顓臾。而在蕭牆之内也。
【書き下し文】
季氏(きし)将(まさ)に顓臾(せんゆ)を伐(う)たんとす。冉有(ぜんゆう)、季路(きろ)孔子に見(まみ)えて曰(いわ)く、季氏将に顓臾(せんゆ)に事有らんとす。孔子曰わく、求(きゅう)、乃(すなわ)ち爾(なんじ)是(これ)過(あやま)てること無か。夫(そ)れ顓臾(せんゆ)は、昔者(むかし)先王(せんのう)以(もっ)て東蒙(とうもう)の主(しゅ)と為(な)し、且(か)つ邦域(ほういき)の中に在(あ)り。是(これ)社稷(しゃしょく)の臣(しん)なり。何を以(もっ)てか伐(う)つことを為(な)さん。
冉有(ぜんゆう)曰(いわ)く、夫子(ふうし)これを欲(ほっ)す。吾(われ)二臣(にしん)は皆(みな)欲せざるなり。孔子曰(いわ)く、求(きゅう)、周任(しゅうにん)に言えること有り。曰(いわ)く、力を陳(の)べて列に就き、能(あた)わざれば止(や)むと。危うくして持(じ)せず、顛(くつがえ)って扶(たす)けずんば、則(すなわ)ち将(は)た焉(いずく)んぞ彼(か)の相(しょう)を用(もち)いん。且(か)つ爾(なんじ)の言(げん)は過(あやま)てり。虎兕(こじ)柙(おう)より出(い)で、亀玉(きぎょく)櫝中(とくちゅう)に毀(こわ)るれば、是(これ)誰の過(あやま)ちぞや。
冉有(ぜんゆう)曰(いわ)く、今(いま)夫(そ)れ顓臾(せんゆ)は固(かた)くして費(ひ)に近し。今取らずんば、後世(こうせい)必ず子孫の憂(うれい)と為(な)らん。孔子曰(いわ)く、求、君子は夫(か)の之(これ)を欲(ほっ)すと曰うを舎(お)いて必ず之(これ)が辞(じ)を為(つく)るを疾(にく)む。丘(きゅう)や聞く、国を有(たも)ち家を有(たも)つ者は寡(すく)なきを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患(うれ)え、貧(まず)しきを患(うれ)えずして安(やす)からざるを患(うれ)うと。蓋(けだ)し均(ひと)しければ貧しきこと無く、和(わ)すれば寡(すく)なきこと無く、安(やす)ければ傾(かたむ)くこと無し。夫(そ)れ是(か)くの如(ごと)くなるが故(ゆえ)に遠人(えんじん)服せざれば則ち文徳(ぶんとく)を修(おさ)めて以てこれを来たす。既(すで)に之(これ)を来たせば則ちこれを安(やす)んず。今(いま)由(ゆう)と求(きゅう)とは夫子(ふうし)を相(たす)け、遠人(えんじん)服せざれども来たすこと能(あた)わず、邦(くに)分崩(ぶんぽう)離析(りせき)すれども守ること能(あた)わず、而(しこう)して干戈(かんか)を邦内(ほうない)に動かさんことを謀(はか)る。吾(われ)季孫(きそん)の憂(うれ)いは顓臾(せんゆ)に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在(あ)るを恐るるなり。
【現代語訳(和訳)】
季孫氏が顓臾(せんゆ)を討伐(とうばつ)しようとした。この時、季孫に仕えている冉有(ぜんゆう)と季路(きろ)が孔子に会いに来て、「季孫氏が顓臾を討伐しようとしています」と報告しました。
孔子は言いました。「冉有、何かの間違いではないのか、顓臾は昔、先王が東蒙の山の祭祀を行う国と認め、その上、魯国の中にある臣従国である。どうして討伐をする必要があるのだ。」
冉有は言いました。「主人が望んでいるのです。我々二人が望んでいる事ではありません。」
孔子は言いました。「冉有、周任が言った言葉に、全力を尽くして職務の義務を果たし、義務を果たせなければ職を辞すとある。目の見えない人が危ない時に支えず、転んだ時にも助けなかったとしたら、助け役に何の意味があろうか。また、あなたの発言は間違っている。もし、虎や野牛が檻を抜け出したり、亀甲や宝石が箱の中で壊れたりしたとすると、いったい誰の責任であろうか。」
冉有が言いました。「顓臾は要害堅固(ようがいけんご)で軍備が整っており、季孫氏の領地である費に近い場所でもあります。今討伐しておかないと、後世の人々に心配事となるかもしれません。」
孔子は言いました。「冉有、人格者は、望んでいることを素直にやりたいと言わず、言い訳する者を憎む。このような言葉を聞いたことがある。国を統治し、人々を統治するものは、物資の少なさを心配するのではなく、平等に配分されるかを心配する。生活が貧しいことを心配するのではなく、平安であるかを心配すると。つまり、平等であれば貧しいとは思わず、分け合えば物資が少ないとは思わない、人々が平安であれば国が傾くことはないのだ。そういうわけだから、遠方の人々が従わない場合は、武力ではなく学問で正しい道へと導き、自然に慕(した)うようにさせ、すでに慕っているとすれば平安に暮らせるようにしてあげることだ。」
「今、冉有も季路も季孫氏を補佐する立場でありながら、遠方の人々を慕わせることができず、国が分裂しているのに守ることもできない。その上、国内で軍隊を動かし、戦乱を起こすことを企てている。私は、季孫氏の心配すべきは顓臾ではなく、彼の家臣の中にあるのではないかと恐れている。」
【解説】
この文では、孔子の弟子である冉有と(ぜんゆう)と季路(きろ)に対し、まるで自分たちには関係ないという態度を改めさせ、問題は季孫氏ではなく、補佐役としての仕事を正しく行ってこなかった二人の責任が大きいということを伝えています。
力によって相手を支配するのではなく、尊敬の心によって慕われることが大事という解釈ができます。
「季氏第十六」は、全部で14章まであり、「子曰く」ではなく、『孔子曰く』で始まる記載が多いとされています。
⑰陽貨(ようか)第十七
『陽貨第十七』は、次の文から始まります。
(陽貨第十七・1章)
陽貨欲見孔子。孔子不見。歸孔子豚。孔子時其亡也。而往拝之。遇諸塗。謂孔子曰。來。予與爾言。曰懷其寳而迷其邦。可謂仁乎。曰不可。好從事而亟失時。可謂知乎。曰不可。日月逝矣。歳不我與。孔子曰。諾。吾將仕矣。
【書き下し文】
陽貨(ようか)、孔子を見んと欲(ほっ)す。孔子見(まみ)えず。孔子に豚(いのこ)を帰(おく)る。孔子其(そ)の亡(な)きを時として往(ゆ)きてこれを拝(はい)す。諸(これ)に塗(みち)に遇(あ)う。孔子に謂(い)いて曰(いわ)く、来たれ。予(われ)爾(なんじ)に言わん。曰(いわ)く、其の宝を懐(いだ)きて其の邦(くに)を迷わす、仁(じん)と謂(い)うべきか。曰(いわ)く、不可なり。事に従うを好みて亟々(しばしば)時を失う、知と謂(い)うべきか。曰(いわ)く、不可なり。日(じつ)月(げつ)逝(ゆ)く、歳(とし)我と与(とも)にせず。孔子曰(いわ)く、諾(だく)。吾(われ)将(まさ)に仕(つか)えんとす。
【現代語訳(和訳)】
陽貨が孔子に会いたがっていましたが、孔子は会いませんでした。陽貨は、孔子に豚を贈りました。孔子は陽貨に会わないように留守を狙って返礼に行ったところ、途中で陽貨に出会ってしまいました。陽貨は孔子に言いました。「来て下さい。ようやくあなたとお話しができます。この乱れた国を救う宝のような知恵を持っているのに、見過ごしている。これが仁と言えますか。」孔子は言いました。「いいえ、仁とは言えません。」「では、政治に携わりたいと思いながら、その機会を逃してしまっている。これは知と言えますか。」孔子は言いました。「いいえ、知とは言えません。」「月日は過ぎていき、歳月も待ってはくれないのです。」孔子は言いました。「分かりました。いずれ貴方にお仕えいたしましょう。」
【解説】
この文では、陽貨が孔子を配下に取り入れようとスカウトしている文面になります。
陽貨は、孔子に直接会うため、贈り物をすることで、孔子ならば必ず礼を重んじて挨拶に来るだろうと待ち伏せしていたのでしょう。
最後に孔子は、「お仕えいたしましょう」と答えていますが、「社交辞令」の言葉と解釈されています。
「社交辞令」は、人間関係を円滑に進めるための挨拶や褒め言葉を言いますが、本心から思っていない場合に用いる際は、思わぬトラブルに繋がってしまう恐れがありますので、注意が必要です。
「陽貨第十七」は、全部で26章まであり、『孔子の身の振り方』についての記載が多いとされています。
⑱微子(びし)第十八
『微子第十八』は、次の文から始まります。
(微子第十八・1章)
微子去之。箕子爲之奴。比干諫而死。孔子曰。殷有三仁焉。
【書き下し文】
微子(びし)は之(これ)を去り、箕子(きし)は之(これ)が奴(ど)となり、比干(ひかん)は諌(いさ)めて死す。孔子曰(いわ)く、殷(いん)に三仁(さんじん)有り。
【現代語訳(和訳)】
微子は殷(いん)を去り、箕子は奴隷に身を落とし、比干は紂王(ちゅうおう)を諌めて死罪となりました。孔子は言いました。殷には三人の仁者がいたと。
【解説】
殷の「紂王(ちゅうおう)」は、暴君(人民を苦しめる君主)で知られていました。「微子(びし)」は、紂王の腹違いの兄で、暴虐的な紂王へ忠告しましたが聞き入れてもらえず、微へと亡命したとされています。
「箕子(きし)」は、紂王の叔父で、箕子も紂王へ忠告しましたが聞き入れてもらえず、奴隷へと落とされましたが、狂人のフリをして辱(はずかし)めを耐えたそうです。
もう一人の叔父であった「比干(ひかん)」は、強く忠告を行ったため、紂王の怒りを買って殺されてしまいました。孔子は、国民のため紂王に忠告を行った三人を称えたということです。
「微子第十八」は、全部で11章まであり、『孔子の関係者』についての記載が多いとされています。
⑲子張(しちょう)第十九
『子張第十九』は、次の文から始まります。
(子張第十九・1章)
子張曰。士見危致命、見得思義。祭思敬、喪思哀。其可已矣。
【書き下し文】
子張(しちょう)曰(いわ)く、士(し)は危(あや)うきを見ては命(めい)を致(いた)し、得(う)るを見ては義(ぎ)を思い、祭(まつり)には敬(けい)を思い、喪(も)には哀(あい)を思う。其(そ)れ可(か)ならんのみ。
【現代語訳(和訳)】
子張が言いました。国に仕える地位のある者は、危険を前にしても命を投げだし、利益を得る時には道義か考え、祭祀では敬意を払い、葬儀には哀悼する。そのようなものですと。
【解釈】
この文は、子張という孔子の弟子が、役人としての資格を説明する文になります。
子張は「孔門十哲」ではありませんでしたが、論語の中では、「孔門十哲」である子路(しろ)・子貢(しこう)に次いで登場する回数が多い弟子となっています。
役人として働く際には、国のため、人のために尽くせる人が相応しいということでしょう。
「子張第十九」は、全部で25章まであり、『弟子の言葉』のみが記載されています。
⑳堯曰(ぎょうえつ)第二十
『堯曰第二十』は、次の文から始まります。
(堯曰第二十・1章)
堯曰。咨爾舜。天之暦數在爾躬。允執其中。四海困窮。天禄永終。
舜亦以命禹。曰、予小子履。敢用玄牡。敢昭告于皇皇后帝。有罪不敢赦。帝臣不蔽。簡在帝心。朕躬有罪。無以萬方。萬方有罪。罪在朕躬。周有大賚。善人是富。雖有周親。不如仁人。百姓有過。在予一人。
【書き下し文】
堯(ぎょう)曰わく。咨(ああ)爾(なんじ)舜(しゅん)、天の暦数(れきすう)爾の躬(み)に在り。允(まこと)に其(そ)の中(ちゅう)を執(と)れ。四海困窮(しかいこんきゅう)せば、天禄(てんろく)永(なが)く終えん。舜(しゅん)も亦(また)以(もっ)て禹(う)に命ず。
曰わく。予(われ)小(しょう)子(し)履(り)、敢(あ)えて玄牡(げんぼ)を用(もちい)て、敢えて昭(あき)らかに皇皇(こうこう)たる后帝(こうてい)に告(つ)ぐ。罪有らば敢えて赦(ゆる)さず。帝臣(ていしん)蔽(かく)さず。簡(えら)ぶこと帝の心に在り。朕(わ)が躬(み)罪有らば、万方(ばんぽう)を以(もっ)てすること無かれ。万方罪有らば、罪(つみ)朕(わ)が躬(み)に在らん。
周に大(おお)いなる賚(たまもの)あり。善人(ぜんにん)是(これ)富(と)めり。周(しゅう)親(しん)有りと雖(いえど)も仁人(じんじん)に如(し)かず。百姓(ひゃくせい)過(あやま)ち有らば予(われ)一人(いちにん)に在(あ)らん。
【現代語訳(和訳)】
堯が言いました。あぁ舜よ、天明はお前の双肩(そうけん)にある。よく中庸(ちゅうよう)を守り、世を治めなさい。天下の人々が困窮することがあれば、天の恵みは(お前の元を)永遠に去ってしまうだろう。瞬もまた禹に帝位を譲る時に同じ事を命じました。
(殷の湯王が)言いました。ふつつか者の私ですが、黒い牡牛を供物(くもつ)として捧(ささ)げ、至高なる天帝に謹んで申し上げます。罪を犯すものを決して許さず、天帝の臣である私は隠し事はしません。天帝の御心にすべて委ねます。もし、私に罪があったとしても、天下の人々に罪を与えないで下さい。もし、天下の人々に罪があったとすれば、私に罪をお与え下さい。
(武王が天帝に誓った)周には天から与えられたたくさんの恵みがある、それは善人が多いことです。私には親族がたくさんいますが、周の仁の心を持った人々にはとうてい及びません。もし、周の人々に過ちがあったとすれば、それは私一人の責任でございます。
【解説】
この文は、皇帝のあるべき姿を表したものと解釈されています。
皇帝の座は堯から舜へ、舜から禹へと移ります。これは、血縁関係での継承ではなく、「礼」を重んじる有徳な人物に継承するというものでした。
その後、禹から桀(けつ)へと移りましたが、桀が暴君であったため、湯王(とうおう)が滅ぼし、皇帝となりました。
今度は、湯王から紂(ちゅう)へと移りましたが、これまた紂が暴君であったため、武王(ぶおう)が滅ぼし、皇帝となりました。
湯王も武王も、暴君を終わらせた偉業が讃えられています。
「堯曰第二十」は、全部で5章まであり(全部で3章とするものもあります。)、『政治関係』についての記載が多いとされています。
論語の五徳「仁・義・礼・智(知)・信」の意味とは
論語では、『仁(じん)』・『義(ぎ)』・『礼(れい)』・『智(ち)』・『信(しん)』という言葉が登場しますが、これは「五徳(ごとく)」と呼ばれる5つの徳になります。(「五常ごじょう」とも言われます。)
「徳(とく)」とは、
『人のあるべき姿や、本来人に備わっている良い品性(人格)のこと』を言います。
では、五徳にはどのような意味があるのか見ていきましょう。
論語の「仁」とは
「仁」とは、『思いやりの心』のことを言います。
儒教では最高の徳とされ、「人を愛すること」・「礼儀を尽くすこと」として、論語の中では説明がされています。
また、「仁」において最も大切なこととしては、
『自分がして欲しくないことは、相手にも行わない』ということです。
自己中心的な考えを捨てて、思いやりの心で人々を愛し、誰に対しても礼儀を払うことが「仁」ということになります。
ちなみに、仁は、「孝悌(こうてい)・克己(こっき)・恕(じょ)・忠(ちゅう)・信(しん)」という5つの徳目から成り立っています。
仁の徳目「孝悌・克己・恕・忠・信」の意味とは
「人を思いやる(愛する)気持ち」である仁は、次のような徳目があります。
- 【孝悌(こうてい)】…近親者への思いやり(「考」は子供が親に尽くすこと、「悌」は弟が兄(年長者)に尽くすこと)
- 【克己(こっき)】…わがままな気持ちを抑えること
- 【恕(じょ)】…他人への思いやり
- 【忠(ちゅう)】…誠意・真心を尽くすこと
- 【信(しん)】…人を騙(だま)さないこと
孔子は特に、近親者への思いやりである『孝悌』を重要視していて、「孝悌」は仁の基本であり、そこから人を愛する気持が生まれてくると考えていました。
論語の「義」とは
「義」とは、『正義』のことを言います。
正義とは、人として正しい行いをすることで、利益に左右されることなく、他人のために尽くすことを言います。
論語の「礼」とは
「礼」とは、『礼儀』のことを言います。
礼儀とは、相手に対して敬意を払うことを言い、人間関係を円滑にしたり、社会秩序を維持したりする役割のあるものとされています。
また、「礼」は、「仁(思いやりの心)」が実際に目に見える形として、行動に表れたものと孔子は言っており、「克己復礼(こっきふくれい)」することが仁であると説きました。
※「克己復礼」とは、自分の欲望を抑えて礼儀正しく振る舞うことを言います。
そのため、仁と礼は密接に結びついた関係と言えるのです。
論語の「智(知)」とは
「智」とは、『智慧(ちえ)』のことを言います。
智慧とは、知識とは少し違い、物事の正しい道筋や本質をつかむ能力のことです。
論語の中で孔子は、「知とは人を知ること」と答えています。
悪い人の中にいたのでは、何が正しいのか分からなくなってしまいますが、正しい行いをする人を知ることで、何が正しく、何がいけないことなのかが分かるようになります。
つまり、善悪の判断ができ、物事の背景を理解して何を行うべきか分かるというのが「智」ということでしょう。
論語の「信」とは
「信」とは、『信頼』のことを言います。
「仁」の徳目にもありましたが、人を騙したりしないことで得られる信頼のことです。
一般に「騙す」と言うと、「人を騙して傷つけること」と思われるかもしれませんが、「保身を守るために、正しい意見を言わない」というのも孔子はダメなことだと言っています。
信頼関係を築くことがまず重要ですが、相手との関係を崩したくないという思いから、言うべきことを言わないのは、間違っているということです。
孔子の人生に役立つ論語の名言集オススメ5選
では、『論語』の中から、人生に役立つオススメな名言を5つ厳選してご紹介します。
君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず。
この言葉は、衛霊公第十五の23章に登場する言葉です。
子曰。君子不以言舉人。不以人廢言。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く、君子(くんし)は言(げん)を以(もっ)て人を挙(あ)げず、人を以(もっ)て言(げん)を廃(はい)せず。
【現代語訳(和訳)】
孔子は言いました。「徳が高い人格者は、言うことが立派だからといってその人を抜擢(ばってき)することはなく、どのような人の言葉であっても、良い言葉は否定することはない」と。
どんなに良い発言をする人であったとしても、それだけでその人を判断できるものではなく、どんなに素行が悪い人であったとしても、良い発言をすればそれを認めましょうということですね。
衆之を悪むも必ず察し、衆之を好むも必ず察す。
この言葉は、衛霊公第十五の28章に登場する言葉です。
子曰。衆惡之。必察焉。衆好之。必察焉。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く。衆(しゅう)之(これ)を悪(にく)むも必ず察(さっ)し、衆(しゅう)之(これ)を好(この)むも必ず察(さっ)す。
【現代語訳(和訳)】
孔子は言いました。大勢の人が嫌うからといって、それを真(ま)に受けるのではなく、自分で必ず確認して判断すること。大勢の人が好きだからといって、それを真に受けるのではなく、自分で必ず確認して判断すること。
現在ではテレビやネットなど、様々な情報にあふれていますが、報道された内容が全て正しいとは限りません。
噂や評判など、すべて鵜呑みにすることはせずに、自分で調べ、よく考えた上で判断するということが必要と言えるでしょう。
君子に九思あり。視るには明を思い、聴くには聡を思い、色には温を思い、貌には恭を思い、言には忠を思い、事には敬を思い、疑わしきには問を思い、忿には難を思い、得るを見ては義を思う。
この言葉は、季子第十六の10章に登場する言葉です。
孔子曰。君子有九思。視思明。聽思聰。色思温。貌思恭。言思忠。事思敬。疑思問。忿思難。見得思義。
【書き下し文】
孔子(こうし)曰(いわ)く。君子(くんし)に九思(きゅうし)あり。視(み)るには明(めい)を思い、聴(き)くには聡(そう)を思い、色には温(おん)を思い、貌(かたち)には恭(きょう)を思い、言(ことば)には忠(ちゅう)を思い、事(こと)には敬(けい)を思い、疑(うたが)わしきには問(もん)を思い、忿(いかり)には難(なん)を思い、得(う)るを見ては義(ぎ)を思う。
【現代語訳(和訳)】
孔子は言いました。
人の理想とする人格者には9つの心掛けがある。
物事をはっきりと注意深く見ること。
人の話を聞く時には、隅々まで耳を傾けること。
表情は常に穏やかであること。
人と接する時には、礼儀正しい態度をとること。
発言において、誠実であること。
仕事を行う時には、慎重であること。
疑問を持った時にはそのままにせず、確認すること。
腹が立っても、怒りにまかせて怒らず、後のことを考えること。利益を得る前に道理に合ったものか考えること。
一人一人が意識してこのことを心掛けて行うことができれば、素晴らしい社会となるに違いありませんね。
能く五つの者を天下に行なうを仁と為す。恭寛信敏惠なり。恭なれば則ち侮られず、寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あり、恵なれば則ち以て人を使うに足る。
この言葉は、陽貨第十七の6章に登場する言葉です。
子張問仁於孔子。孔子曰。能行五者於天下爲仁矣。請問之。曰。恭寛信敏惠、恭則不侮、寛則得衆、信則人任焉、敏則有功。惠則足以使人。
【書き下し文】
子張(しちょう)仁(じん)を孔子(こうし)に問(と)う。孔子(こうし)曰(いわ)く。能(よ)く五つの者を天下(てんか)に行うを仁と為(な)す。之(これ)を請(こ)い問(と)う。曰(いわ)く、恭(きょう)寛(かん)信(しん)敏(びん)惠(けい)なり。恭なれば則(すなわ)ち侮(あなど)られず、寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人(ひと)任(にん)じ、敏なれば則ち功(こう)あり、恵なれば則ち以(もっ)て人を使うに足る。
【現代語訳(和訳)】
子張は仁について孔子に尋ねました。
孔子は言いました。5つの徳目を世間で行うことができれば仁者と言えるでしょう。子張はそれについて詳しく教えて欲しいとお願いしました。
孔子は言いました。恭(丁寧さ)・寛(寛容さ)・信(誠実さ)・敏(機敏さ)・惠(恵み深さ)です。
相手を敬い、礼儀正しく丁寧であれば軽蔑されることはなく、心が寛容であれば人望が得られ、誠実であれば人から信頼される、機敏に仕事に取り組めば成果が上がり、恵み深ければ人を動かすことができると。
仁者というのは、会社組織のリーダーにも当てはまる言葉ですので、上司の理想の姿と言えるでしょう。
目下の人に対しても礼義正しく、失敗したからといって責めるようなことはせず、誰に対しても平等に接し、率先して段取りよく仕事を行い、後輩のフォローもきちんと行えるという人こそ上司のあるべき姿ではないでしょうか。
礼と云い、礼と云うも、玉帛を云わんや。楽と云い、楽と云うも、鐘鼓を云わんや。
この言葉は、陽貨第十七の11章にある言葉です。
子曰。禮云禮云。玉帛云乎哉。樂云樂云。鐘鼓云乎哉。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く、礼と云(い)い、礼と云(い)うも、玉帛(ぎょくはく)を云(い)わんや。楽(がく)と云(い)い、楽(がく)と云(い)うも、鐘鼓(しょうこ)を云(い)わんや。
【現代語訳(和訳)】
孔子が言いました。礼義だ礼義だと言うが、それは玉や絹といった儀式に使う道具のことをいうのであろうか。音学だ音学だと言うが、それは鐘や太鼓といった楽器のことをいうのであろうか。(いや違う、礼義や音学の本質は形式のことをいうのではなく、仁にあるのだ。)
儀式というものは、形式が大事なのではなく、なぜその儀式が行われているかという意味や理由が大事なのであり、音学というものは、楽器が良いものかどうかというのは関係なく、演奏している人の気持ちが大切ということです。
論語に由来する四字熟語とは
実は、『論語』の言葉が由来となって作られた四字熟語がいくつもありますので、紹介したいと思います。
- 悪衣悪食(あくいあくしょく)〈里仁第四〉
・・・衣服や食べ物が粗末であるという意味があります。 - 益者三友(えきしゃさんゆう)〈季氏第十六〉
・・・交際するとためになる三種の友人のことを言います。(正直な人・誠実な人・博識な人) - 遠慮近憂(えんりょきんゆう)〈衛霊公第十五〉
・・・将来のことを考えて行動しないと、近いうちに心配事が必ず起きるという意味があります。 - 温故知新(おんこちしん)〈為政第二〉
・・・昔のことをよく調べて研究すると、そこから新しい知識や発見が得られるという意味があります。 - 怪力乱神(かいりょくらんしん)〈述而第七〉
・・・理屈では説明できないような不思議な出来事のことを言います。 - 下学上達(かがくじょうたつ)〈憲問第十四〉
・・・初歩的なことから学び始め、少しずつ進歩向上していくことを言います。 - 過猶不及(かゆうふきゅう)〈先進第十一〉
・・・やり過ぎるのは、やらなさ過ぎるの同じという意味があります。(何事もバランスが大事) - 家庭之訓(かていのおしえ)〈季氏第十六〉
・・・父の教えのことを言います。(家庭での教育) - 侃侃諤諤(かんかんがくがく)〈郷党第十〉
・・・たくさんの人が集り、盛んに発言して議論をする様子を表した言葉です。また、正しいと思うことを堂々と主張する様子を表すこともあります。 - 牛刀活鶏(ぎゅうとうかっけい)〈陽貨第十七〉
・・・ちょっとした物事に、有り余る手段を使って処理することを言います。 - 朽木糞牆(きゅうぼくふんしょう)〈公冶長第五〉
・・・手の施しようのないものや、役に立たないという意味から、やる気のない人を教育することはできないという意味があります。 - 軽裘肥馬(けいきゅうひば)〈雍也第六〉
・・・高貴な人や暮らしのことを言います。 - 犬馬之養(けんばのよう)〈為政第二〉
・・・金銭的・物質的な援助だけで、精神的な愛情がない親孝行のことを言います。 - 後生可畏(こうせいかい)〈子罕第九〉
・・・若い人は成長途中のため、大きな可能性を秘めており、決して侮(あなど)ってはいけないという意味があります。 - 巧言令色(こうげんれいしょく)〈学而第一〉
・・・口先だけでうまいことを言ったり、気に入られるために愛想良く取り繕うことを言います。 - 剛毅木訥(ごうきぼくとつ)〈子路第十三〉
・・・意志が強く、素朴で飾り気がないという意味があります。 - 克己復礼(こっきふくれい)〈顔淵第十二〉
・・・自分の欲望を抑え、社会の規範に沿って礼義正しく行動することを言います。 - 五十知命(ごじゅうちめい)〈為政第二〉
・・・50歳になって天から与えられた使命を悟るようになるという意味があります。 - 歳寒松柏(さいかんしょうはく)〈子罕第九〉
・・・逆境や苦しい時でも、志や信念を貫くことを表す意味があります。 - 四海兄弟(しかいけいてい)〈顔淵第十二〉
・・・誠意と礼義を尽くして他者に接すれば、世界中の人と兄弟のように仲良くなることを言います。また、そうなるべきだといった意味で用いられています。 - 戦々恐々(せんせんきょうきょう)〈泰伯第八〉
・・・物事を恐れて怯えている様子を表す言葉です。 - 先難後獲(せんなんこうかく)〈雍也第六〉
・・・先に難しいこと(人のためになること)に取り組み、利益は後回しにするという意味があります。 - 草偃風従(そうえんふくじゅう)〈顔淵第十二〉
・・・君子の徳によって、自然と民衆が従うようになるという意味があります。 - 造次顛沛(ぞうじてんぱい)〈里仁第四〉
・・・わずかな時間を表す意味があります。 - 損者三友(そんしゃさんゆう)〈季氏第十六〉
・・・交際すると損をする三種の友人のことを言います。(お世辞を言う人・誠実でない人・調子の良い人) - 箪食瓢飲(たんしひょういん)〈雍也第六〉
・・・質素な食事を表す言葉です。 - 訥言敏行(とつげんびんこう)〈里仁第四〉
・・・徳のある人(すぐれた人格である人)は口数が少なくても、行動が素早く正確であるべきだという意味があります。 - 道聴塗説(どうちょうとせつ)〈陽貨第十七〉
・・・道ばたで聞いただけの根拠のない知識を、すぐさま他人に話すという意味があります。 - 博文約礼(はくぶんやくれい)〈雍也第六〉
・・・広く学問を学んで教養を積み、礼を基準にまとめて、実行すると言う意味があります。 - 発憤忘食(はっぷんぼうしょく)〈述而第七〉
・・・食事を忘れるくらい、夢中になって懸命に物事に取り組むという意味があります。 - 富貴浮雲(ふうきふうん)〈述而第七〉
・・・富と地位は儚(はかな)く、頼りにならないものという意味があります。 - 分質彬彬(ぶんしつひんぴん)〈雍也第六〉
・・・外見の美しさと、内面の実質が調和している人のことを表す言葉です。 - 暴虎馮河(ぼうこひょうが)〈述而第七〉
・・・虎に素手で立ち向かったり、黄河を徒歩で渡ったりするような、無謀な危険をおかすという意味があります。 - 無信不立(むしんふりゅう・信無くば立たず)〈顔淵第十二〉
・・・国民に信頼されなければ、政治は成り立たないという意味があります。 - 用舎行蔵(ようしゃこうぞう)〈述而第七〉
・・・身の振り方の一番良いしおどきを、わきまえているという意味があります。 - 和而不同(わじふどう)〈子路第十三〉
・・・人と協力はしても、何でも人の意見や態度に合わせて従うことはないという意味があります。
論語が基となった年齢を表す言葉とは
「論語」の『為政第二・4章』の中では、孔子が自分の一生を語った言葉があり、それが基となって作られた年齢を表す言葉があります。
あまり日本では使われる言葉ではないかもしれませんが、『不惑(ふわく)』という言葉は用いられることがありますので、解説していきたいと思います。
年齢の由来となった論語
(為政第二・4章)
子曰。吾十有五而志于學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所欲、不踰矩。
【書き下し文】
子曰(しいわ)く、吾(われ)十有五(じゅうゆうご)にして学(がく)に志(こころざ)す。三十(さんじゅう)にして立(た)つ。四十(しじゅう)にして惑(まど)わず。五十(ごじゅう)にして天命(てんめい)を知る。六十(ろくじゅう)にして耳(みみ)順(した)がう。七十(しちじゅう)にして心の欲(ほっ)する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず。
【現代語訳(和訳)】
孔子は言いました。私は15歳の時、学問を志しました。30歳になり、学問の基礎が付き、自立できました。40歳の時、物事を判断する際の心の迷いが無くなりました。50歳の時、天から与えられた使命を悟りました。60歳の時、他人の言葉を素直に聞くことができるようになりました。70歳になり、心の思うように行動しても、道を踏み外すことが無くなりました。
論語由来の年齢の言葉
【15歳】
孔子の「十有五にして学に志す」という言葉から、15歳は『志学(しがく)』と言います。
【30歳】
孔子の「三十にして立つ」という言葉から、30歳は『而立(じりつ)』と言います。
【40歳】
孔子の「四十にして惑わず」という言葉から、40歳は『不惑(ふわく)』と言います。
この言葉は、「40歳」という意味の他、「物の考え方に迷いがないこと」という意味で現在でも用いられています。
【50歳】
孔子の「五十にして天命を知る」という言葉から、50歳は『知命(ちめい)』と言います。
【60歳】
孔子の「六十にして耳順がう」という言葉から、60歳は『耳順(じじゅん)』と言います。
【70歳】
孔子の「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」という言葉から、70歳は『従心(じゅうしん)』と言います。
「論語読みの論語知らず」とは
『論語読みの論語知らず』という「ことわざ」をご存じでしょうか。
この「ことわざ」は、儒学者であった「朱子(しゅし)」の、自らの解釈を註釈に入れて本にした『論語集注(ろんごしっちゅう)』が由来になって作られたものと言われています。
「論語読みの論語知らず」という言葉は、論語を読んで内容は理解して語ることはできても、実際にその教えを実践できていなかった人がいたことから、
『知識はあっても、それを実行して生かすことができていない人』を表す言葉として用いられるようになりました。
一般的には、からかう意味で用いられることの多い言葉ですが、次のような使い方ができます。
「論語読みの論語知らず」の使い方【例文】
- 母はダイエット番組は欠かさず見ているのに、やっている姿は一度も見たことがない。これこそ論語読みの論語知らずと言うだろう。
- 専門学校に行って勉強したのに、結局全く関係のない仕事に就くことになったとは、論語読みの論語知らずになってしまったなぁ。
- 彼はやたらと細かい知識があって色々指示してくるが、自分でやることは一切無い。論語読みの論語知らずに言われても全くやる気がおきない。
小中学生も分かりやすい「論語」について学べる本をご紹介
「論語」は、5世紀初め頃に百済(くだら)から渡来した王仁(ワニ)という人物から日本に伝わったとされています。
その後、日本で広く学ばれてきた「論語」ですが、近年、人格育成の基盤となる道徳教育の強化により、人を思いやる気持ちを基本にした「論語」が注目され、学校教育に取り入れる動きが活発化しているようです。
そこで、小中学生でも読みやすく、理解しやすい「論語」について学べる本をご紹介したいと思います。
人気ベストセラーの論語本(新装版)
こちらの『こども論語塾』は、累計30万部のベストセラーとなった『こども論語塾』シリーズ3冊を一冊にまとめたハンディ本で、シリーズ3冊の60章句に、さらに15章句新たに追加した新装版になります。(計75章句)
白文・書き下し文・和訳に加え、子供が読みやすいように漢字には全てふりがなが振ってあり、その言葉が何を伝えたいのかを子供用に解説してくれています。
見開き1ページで1章句となっていますので、とても分かりやすいですが、和訳は少し難しいので、親子で一緒に意味を考えると、より理解が深まるのではないでしょうか。
カラフルな文字と可愛いイラストで小学生でも分かる論語本
こちらの『ピカピカ論語』は、教育学者である齋藤孝先生著書の論語本で、小学校低学年でも理解できるよう、やさしい言葉で和訳がしてあるのが特徴の本となっています。
全部で30章句あり、子供が嫌にならないよう、カラフルな文字と可愛いイラストが描かれ、子供一人でも十分に読むことができる一冊になります。
楽しく論語を学ばせたい方にはオススメです。
まとめ:論語とは、孔子とその弟子達の行動や言葉のやり取りをまとめた書物のこと
- 論語は、儒教の経典の一つで、孔子の死後、弟子達の手によって400年かけて作られたもの
- 孔子は、儒教の開祖であり、キリスト・釈迦・ソクラテスと並ぶ四聖人の一人とされている
- 論語は、約500もの短文が、20編にわけて構成されている
- 20編にテーマはなく、その編の最初の始まりの2~3文字をとった言葉が20編の題名となっている
- 論語の「仁」は思いやりの心・「義」は正義・「礼」は礼義・「智」は智慧・「信」は信頼といった意味がある
- 論語が由来となって作られた「不惑」などの年齢を表す言葉や、四字熟語がたくさんある
- 「論語読みの論語知らず」とは、知識はあっても、それを実行して生かすことができていない人を表し、その人をからかう意味で用いられることが多い
いかがでしたでしょうか。「論語」は、今から約2500年前の中国で作られた書物で、「思いやりの心」を基本とし、人間があるべき姿を説いた言行録ということが分かりました。
ちなみに、孔子のフルネームは、孔丘(こうきゅう)と言います。
孔子の「子」というのは、「師(先生)」という意味の敬称となっていますので、「孔先生」と呼んでいたわけですね。
また、孔子は身長が2m16㎝もあり、「長人」と呼ばれていたそうです。
孔子の出身である山東省は、比較的高身長の方が多いようですが、それでも孔子は驚くほど体格が良かったと言われています。
加えて、昔の中国では、成人すると実名とは別に「字(あざな)」と呼ばれる、呼び名専用の名前が付けられていたそうです。
孔子にも「仲尼(ちゅうじ)」という字(あざな)があります。
基本的に下の名前(諱いみな)で呼ぶのは非常に失礼に当たるとして、親や年長者などの目上の人以外は、字で呼んでいたとされています。
また、官職(国家公務員)に就いた場合は、官職名をつけて呼ぶことが優先されていたそうです。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。