よくテレビやビジネスの場などで、「敵に塩を送る」という言葉を耳にすることがあります。
皆さんは、なぜ「敵に塩を送る」と言うのか不思議に思ったことはありませんか?
実はこの言葉は、ある有名な武将の逸話が由来となっていて、美談として有名な話でもあるのです。
そこで、この記事では、
- 「敵に塩を送る」の意味と由来
- 「敵に塩を送る」の美談は嘘?
- 日本外史『所争不在米塩』の書き下し文と現代語訳
- 「敵に塩を送る」の使い方【例文】
- 「敵に塩を送る」の類語と対義語
について解説・紹介していきます。
敵に塩を送るの意味とは?
「敵に塩を送る(てきにしおをおくる)」という言葉には、
『敵の弱みにつけこまず、逆に窮地(きゅうち)から敵を救う』という意味があります。
分かりやすく説明すると、対立関係にある相手であったとしても、相手がピンチの時には助けるという意味です。
ことわざ「敵に塩を送る」の由来
それにしても、なんで「敵に塩を送る」と言うのかな?
それはね、「上杉謙信(うえすぎけんしん)」が最大の宿敵であった「武田信玄(たけだしんげん)」を救ったという話が由来とされているんだ。
共に戦国大名であった武田信玄と上杉謙信は、「川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)」で12年間にわたり5回も合戦を行ったことで有名です。
そんな宿敵同士であった2人ですが、武田信玄の窮地(きゅうち)を上杉謙信が救ったという話があり、その出来事から「敵に塩を送る」ということわざが生まれたと言われています。
武田信玄の領地に塩留(しおどめ)が行われた
発端は、武田信玄が「北条氏康(ほうじょううじやす)」と「今川義元(いまがわよしもと)」と結んだ和平協定『甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)』を破棄したことです。
「桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)」で今川義元が「織田信長(おだのぶなが)」によって討たれると、息子の「今川氏真(いまがわうじざね)」が当主になりましたが、それを機に今川家から「徳川家康(とくがわいえやす)」が独立して織田信長と同盟を結ぶなど、次第に今川家の弱体化が進んでいきました。
武田信玄は、今川家の情勢が変わってきたことから、今川家を見限り、今川家の領土に攻め入ることを北条家に持ちかけますが、北条氏康の息子「北条氏政(ほうじょううじまさ)」がそれを拒絶したため、徳川家康と密約を結び共闘することにします。
すると、今川領である「駿河国(するがのくに)」への侵攻を武田信玄が目論んでいると知った今川氏真は、裏切り者への制裁として北条家に協力を持ちかけ、武田信玄の領地に塩を輸出することを禁止したのです。
これは、武田信玄の領地は内陸にあったため、塩の輸入をすることができないと武田領が塩不足に陥り、深刻な問題へと発展すると考えたからでした。
上杉謙信は塩留に参加しなかった
今川氏真は、武田信玄の宿敵であった上杉謙信に対しても塩留計画を持ちかけましたが、「卑怯なやり方で国を滅ぼすのは儀に反することだ。自分は弓矢で武田信玄と戦う」として上杉謙信はこの計画には参加しませんでした。
儀とは、人として守らなければならない道のことです。
そして、上杉謙信は自分の領地からいくらでも塩を輸入したらいいと武田領に塩の販売を続け、塩の値段を上げて売ることもなかったと言われています。
その後、武田信玄は上杉謙信に太刀(たち)を贈り、感謝の気持ちを伝えたとされており、現在その太刀は、「塩留の太刀(しおどめのたち)」と呼ばれ、重要文化財として東京国立博物館に所蔵されています。
「敵に塩を送る」は美談として語られているが、実は嘘?
上杉謙信が宿敵である武田信玄を救ったというのは、ことわざとなり、美談として語られていますが、
・「実際は高値で塩を売りつけていた」
・「上杉謙信を慕うものが創作した話」
・「そもそも塩留なんて行われなかった」
などと言われることがあります。
実際に、事実とは異なる話が創作されて美談として伝わるというのはよくある話で、「敵に塩を送る」の由来と言われる故事『日本外史(1827年)』に関しても、史実的には信憑性が薄いものと判断されているため、どこまでが本当で何が嘘なのかについては分かっておらず、肯定も否定もできない状況となっています。
塩留の逸話は武田家が語りついできた話?
塩留の話は「日本外史」で美談として取り上げられたことで、日本中に伝わったとされていますが、それ以前にも塩留に関して書かれた書物が存在しています。
『武田三代軍記(1720年成立)』は、武田家三代(信虎・信玄・勝頼)の軍略や合戦、逸話などを収録した書物です。
その「武田三代軍記」の中でも、上杉謙信が塩の値上げをしないよう要請したとの内容が書かれており、著者である「片島武矩(かたしまたけのり)」は、武田流の軍学者であったことから、武田派の人間が上杉謙信の善行を創作するというのは考えづらいと考察されています。
また、江戸時代前期の儒者であった「山鹿素行(やまがそこう)」の講義を門人たちが収録した『山鹿語類(1665年成立)』の【巻第24目録/士談3/風流】でも上杉謙信の話が語られており、この書物は上杉家の『謙信公御年譜(1696年)』に塩留の話が記録されるよりも前の書物であることから、上杉家の記録以外から知った話ということになります。
ここから推測できることは、武田家内で「上杉謙信は敵にもかかわらず塩を売ってくれた」と語り継がれていた話が次第に美談として広まっていったという説です。
上杉謙信は塩は送っていない
ことわざでは、「敵に塩を送る」と言いますが、どの書物でも「塩を送った」とは書かれておらず、『塩留には参加せず、値上げすることもなかった』という記述だけです。
つまり、上杉謙信は無償で塩を送ったわけではなく、輸出をしただけということになります。
上杉謙信からすると、値上げはせずとも塩をたくさん輸出することで、利益を得るメリットがあったから輸出したとも考えられるよね。
そうかもしれないね。でも、武田信玄にとっては輸出してもらえるだけでありがたかっただろうから、武田側の人間からすると、上杉謙信に恩義を感じるほどの出来事であっただろうね。
あと、疑問なのが、上杉謙信以外から塩を輸入できなかったのかということだけど・・・他の武将としては助ける義理はないって感じだったのかな?
確かに、友好関係を築いていた織田信長から輸入できたのでは?という考えもあって、そういう点も塩留は疑問視されるポイントではあるよ。
ちなみに、武田信玄が上杉謙信に贈ったとされる「塩留の太刀」ですが、上杉家の元帳(もとちょう)には信玄の父である信虎から贈られたとされているため、様々な点から塩留の話は「嘘」と言われることがあります。
日本外史『所争不在米塩』の書き下し文と現代語訳
それでは、美談として広まった「日本外史」の『所争不在米塩』の内容を【白文(漢文)】・【書き下し文】・【現代語訳】で紹介します。
日本外史『 所争不在米塩(争う所は米塩に在らず) 』
作者:頼山陽(らいさんよう)
【白文(漢文)】
信玄国不浜海。
仰塩於東海。
氏真与北條氏康謀。
陰閉其塩。
甲斐大困。
謙信聞之。
「寄書信玄曰。聞氏康氏真困君以塩。不勇不義。我与公争、所争在弓箭、不在米塩。請自今以往。取塩於我国。多寡唯命。」
乃命賈人平價値給之。
【書き下し文】
信玄の国は、海に
塩を
氏真 北条氏康と
謙信
「氏康・氏真 君を困しむるに塩を
【現代語訳】
信玄の国は海に面していない。
(そのため)塩を東海(に隣接する国)に頼っていた。
(今川)氏真は北条氏康と謀り、密かに塩の輸出を止めた。
(それにより)甲斐の国(=武田領)は大変苦しんだ。
謙信はこのことを聞くと、信玄に手紙を送ってこう伝えた。
「氏真と氏真があなたを困らせるために塩を手段として使っていると聞く。(このやり方は)卑怯で不義(な方法)である。私はあなたと争っているが、争っているのは弓矢(武力)においてであり、米や塩ではない。どうか今からは塩を私の国から調達してほしい。量の多い少ないはあなたが命じるとおりである」と。
そうして(謙信は)商人に命じ、価格を(上げることなく)適正にして塩を供給させた。
敵に塩を送るの使い方【例文】
「敵に塩を送る」という言葉は、ビジネス場でも使用されることがありますので、使い方を理解しておくと安心です。
本来は「敵を窮地から助ける」という良い意味を持つ言葉ですが、現在では「敵を助けてしまうことになる」というような否定的な内容で使用されることが多い言葉となっています。
それでは、使い方を【例文】で紹介します。
- 【例文1】
ここでA選手を試合に出さないなんて、敵に塩を送るようなものだ。 - 【例文2】
敵に塩を送るかたちになるが、今恩を売っておくのも悪くはないだろう。 - 【例文3】
自らの利益のために敵に塩を送るなんて信じられない。 - 【例文4】
新商品の情報をうっかりB社の人間に話しただと!?敵に塩を送ってどうするんだ! - 【例文5】
ライバル関係にありながらも敵に塩を送る行動に、世界中で称賛の声があがった。
敵に塩を送るの類語・言い換え表現
「敵に塩を送る」の類語・言い換え表現としては、下記のような言葉があります。
利敵 (りてき) | 敵に利益をもたらすことを言います。 |
相手を利する (あいてをりする) | 相手に利益を与えることを言います。 |
敵に味方する (てきにみかたする) | 敵に協力することを言います。 |
敵の得になる (てきのとくになる) | 敵の利益になることを言います。 |
敵を喜ばせる (てきをよろこばせる) | 敵が喜ぶ行動をとることを言います。 |
敵に塩を送るの逆の言葉(対義語)はある?
「敵に塩を送る」の逆の意味の言葉(対義語)となると、敵の弱点を突いたり、困っているところに不利益を与えたりするような言葉があてはまります。
痛いところを突く (いたいところをつく) | 弱点を指摘して攻め立てることを言います。 |
弱みにつけこむ (よわみにつけこむ) | 欠点や困っているところを利用して有利になろうとすることを言います。 |
傷口に塩を塗る (きずぐちにしおをぬる) | 状態が良くないところにさらに良くないことが起きることを言います。 |
まとめ:「敵に塩を送る」という言葉には、敵の弱みにつけこまず、逆に窮地から敵を救うという意味がある
- 「敵に塩を送る」ということわざは、塩留を受けた武田信玄の国へ上杉謙信が塩を送って助けた話が由来とされている
- 上杉謙信は無償で塩を送ったわけではなく、値上げせずに塩を輸出しただけ
- 塩留の話は信憑性が少ない話として「嘘」と言われることもあるが、否定する根拠もない
- 現在「敵に塩を送る」という言葉は、批判的な内容で使用されることが多い
- 「敵に塩を送る」の類語は、「利敵」や「相手を利する」など
- 「敵に塩を送る」の対義語は、「痛いところを突く」や「傷口に塩を塗る」があてはまる
いかがでしたでしょうか。
「敵に塩を送る」ということわざは、敵関係にあろうとも、相手が苦しんでいる時には助けるという意味があることが分かりました。
ちなみに、上杉領の「越後(えちご)」【新潟県糸魚川市(にいがたけんいといがわし)】から武田領の「信濃(しなの)」【長野県松本市(ながのけんまつもちし)】まで塩が運ばれた道は、「千国街道(ちくにかいどう)」と言い、別名「塩の道」と呼ばれています。
※「千国街道」は、「松本街道(まつもとかいどう)」や「糸魚川街道(いといがわかいどう)」と呼ばれることもあります。
その塩の道を通り、上杉謙信が送った塩が信濃に到着したのが1569年1月11日のことであったことから、信濃ではそのことを記念して毎年1月11日に塩の販売を行う「塩市」を開催するようになったそうです。
その後、1905年(明治38年)に塩の専売制がとられたことにより、自由に塩の売買ができなくなったことから、特産品であった飴(あめ)を売るようになったことで、「飴市(あめいち)」と呼ばれるようになったと言われています。
現在では、「松本あめ市」として1月の第二土曜と日曜にイベントが開催されており、飴やダルマの屋台が並ぶほか、綱引き合戦などの催しが行われているようですよ。
塩送りの真相はわかりませんが、義を重んじる生き方を心がけたいものですね。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。