古い日本建築や哀愁漂う風景などを見て、心が落ち着き、なんとも言えない趣(おもむき)や美しさを感じた時に「わびさびがある」といった表現をすることがありますよね。
「わびさび」は日本で代表的な美意識の一つとされていますが、皆さんは「わびさび」とはどういうことかを伝えることができますか?
何となく分かってはいるけれど、詳しく説明できないことから、「聞かれると困る」といった方が多くいらっしゃるようです。
そこで、この記事では、
- 「わびさび」の意味
- 「わびさび」と茶道の関係と「わび茶」の歴史
- 「わびさび」の使い方
- 「わびさび」の類義語
について解説・紹介していきます。
「わびさび」の意味とは
「わびさび」は一つの言葉のように使われることが多いですが、「侘び(わび)」と「寂び(さび)」という二つの言葉を合わせた『美的概念(がいねん)』のことを言います。
美的概念とは、美しいと判断する考えのようなものを言います。
「わび」とは
「わび」とは、動詞である『侘ぶ(わぶ)』の名詞形を言います。
『侘ぶ』という言葉には、「気落ちする」・「気弱になる」・「心細く思う」・「困惑する」・「思い悩む」・「落ちぶれる」・「許しを求める」などの意味があり、『内面的な心の落ち込み』を表す言葉となっています。
このことから「わび」は、「完全な状態ではない劣(おと)った状態」として「粗末(そまつ)な様子」や「貧(まず)しさ」を表す言葉とされ、本来はあまり良い意味の言葉ではありませんでした。
しかし、平安時代後期になると「不完全なものは味わい深く美しい」という考えが生まれ、鎌倉時代に中国から「禅宗(ぜんしゅう)」が入ってきたことで禅宗と結びつき、美を表す概念として使用されるようになっていきました。
そして、現在では『控えめで静けさがあり、簡素な趣(おもむき)』を表す言葉となっています。
ちなみに「簡素」とは、飾り気がなく質素(しっそ)なことを言い、「趣」は、そのものが感じさせる風情(ふぜい)であったり、しみじみとした味わいのことを言います。
「さび」とは
「さび」とは、動詞である『さぶ』の名詞形を言います。「さぶ」は『寂ぶ』や『然ぶ』と書かれます。
『さぶ』という言葉には、「古くなる」・「光が弱くなる」・「色があせる」などの意味があり、『表面的な変化』を表す言葉となっています。
このことから「さび」は、「時間の流れと共に劣化していく様子」や「生命が衰えていく様子」を表す言葉とされていました。
そして、「さび」に「寂」という漢字が当てられたことで、「人がいなくなって静かな状態」を表す『寂(さび)れる』という言葉も生まれることとなりました。
しかしながら、「さぶ」は「内面的本質が表面に滲(にじ)み出てくる」という意味を持つことから、状態を表す「然」という字の方が意味としては相応(ふさわ)しいとも言われています。
また、金属などが次第に劣化(酸化)し、表面に現れてくるものを「錆(さび)」と言いますが、これは「内面的本質が次第に劣化し、表に現れる」という意味を持つ「さび」という言葉に「錆」の字が当てられた言葉となっています。
そして、この「さび」という言葉は、平安時代後期に和歌の中で肯定的な意味として「静けさや寂しさによって生まれる風情」が歌われるようになったことで、その後の俳諧(はいかい)や能楽の世界で「美を表す概念」として重要視されるようになっていきました。
現在では『静けさの中に生まれる奥深い美しさや、時間の流れによって古びていったものから感じられる趣』を表す言葉となっています。
「わびさび」とは
内面的美しさを表す「わび(侘び)」と表面的美しさを表す「さび(寂び)」が合わさることで生まれる概念を『わびさび』と言い、この二つはよく表裏一体の価値観だと言われます。
わびさびとは
そして、この「わびさび」という日本独特の美的概念は、総合芸術とされる茶道(茶の湯)の精神と深く結びついていて、茶道が広まったことで「わびさび」の心が日本人に定着していくこととなりました。
それでは、どのように「わびさび」がお茶と結びついていったのかを、お茶の歴史と共に紹介していきます。
「わびさび」と茶道の歴史
お茶文化の始まり
「茶道」の始まりは鎌倉時代になります。
『明菴栄西(みょうあんえいさい)』という僧侶によって中国から禅宗(ぜんしゅう)と共にお茶(抹茶)の栽培方法や飲茶方法が伝えられたのが始まりと言われています。
禅宗とは、座禅の修行を行うことで、自分の中にある真の生き方を悟ろうとする仏教の一派のことを言い、栄西は日本に帰国後禅宗を広め、臨済宗(りんざいしゅう)(禅宗)の開祖となった人です。
平安時代にもお茶は薬として遣唐使によって日本に伝えられていましたが、お茶は高価なものであったため、一部の上流階級の貴族や僧侶だけがお団子状の発酵茶のようなものを煎じて飲んでいたとされています。
その後、栄西はお茶の栽培を始め、禅宗寺院にお茶を普及させると共に『喫茶養生記(きっさようじょうき)』というお茶の効能や飲茶方法、栽培方法を記した書物を完成させます。
この『喫茶養生記』は将軍である源実朝(みなもとのさねとも)に献上され、武士社会へとお茶が広まるきっかけとなったようです。
また、栄西は京都にある栂尾山高山寺(とがのおさんこうさんじ)の『明恵上人(みょうえしょうにん)』にもお茶の種を送っており、そのことがきっかけで宇治で栽培が普及したことで、一般にもお茶が親しまれるようになっていくこととなりました。
武士とお茶
お茶は元々薬として日本に伝わりましたが、鎌倉時代後期になると、香りや味を楽しむ嗜好品(しこうひん)となり、武士や貴族の間で広まっていくこととなったようです。
また、有力大名や将軍が行う茶会の際には、唐物(からもの)と言われる中国製の高価な茶器を使用することが流行し、盛大な茶会が会所(かいしょ)で行われていたと言われています。
会所とは接客に使用する部屋のことで、会所にはたくさんの唐物の美術品が飾られ、それを観賞しながらお茶や和歌などを楽しんでいたのだそうです。
僧侶とお茶
一方、禅宗寺院においてお茶は、修行の際の眠気覚ましの薬として用いられるようになり、「茶礼(されい)」という儀礼的な作法も取り入れられていました。
「茶礼」は、栄西の孫弟子である道元(どうげん)によって、中国の禅寺の規則を基に作られた『永平清規(えいへいしんぎ)』の中に記載してある規則で、『永平清規』とは日常的な僧侶の規範を示すもののことです。
そして、南北朝時代になると、貴族や武士の間で「闘茶(とうちゃ)」と呼ばれるお茶の味や香りなどで産地を当てる遊びが盛んに行われるようになります。
茶会の飾り付けは一段と豪華になり、室町時代に入る頃には賭け事まで行われるようになっていたため、1336年に建武式目(けんむしきもく)により闘茶が禁止されるほどでした。
室町時代になると、足利義政のお茶の師匠であった『村田珠光(むらたじゅこう)』により、それまで精神性が重んじられてなかった茶会に精神性が説かれるようになります。
村田珠光のわび茶
村田珠光は茶会においての賭け事や飲酒を禁止し、亭主と客人との精神交流を主体とした茶会を目指していました。
また、高価な唐物を十分に味わい尽くした後は、真逆と言える質素な和物を取り入れることを勧め、唐物と和物が一体となった境地を味わうことこそが大切だと説いたそうです。
珠光は、一番弟子である古市澄胤(ふるいちちょういん)に”わび茶に対する考え”を書いた手紙を送っていて、とことん高価な唐物を味わい、確かな心を持った後に唐物と和物を対比することで、和物に思いがけない美しさを見つけられることが面白いとも語っています。
この古市澄胤に送った手紙は、わび茶が「人間の成長をもたらす心の道」であることを説く手紙となっており、後にこの手紙は『心の文』と言われ、珠光が『わび茶の創始者』と言われる所以(ゆえん)となりました。
ちなみに、珠光は「月も雲間のなきは嫌にて候」という有名な言葉も残していて、「煌々と輝く月よりも、雲がかかり、見え隠れする月の方が美しい」と不完全なものへの美しさを表す言葉となっています。
この言葉で少し「わび」の精神とは何かを感じとるができますね。しかし、「わび茶」が人々の間で流行するのはまだ先のことになります。
書院の茶
その後、室町時代の中期になると書院造りの住宅が普及したことで書院の部屋で茶会が行われるようになりました。
書院とは「床の間(とこのま)」・「違い棚」・「付書院(つけしょいん)」と呼ばれる座敷飾りを備えた部屋のことを言います。
また、室町幕府第8代将軍足利義政の同朋衆(どうぼうしゅう)であった能阿弥(のうあみ)によって、唐物を飾り付けるための形式である「書院飾り」が完成され、仏様にお茶を捧げるための仏具であった「台子(だいし)飾り」も書院茶に取り入れられることになります。
同朋衆とは、将軍の近くで雑務などを行い、芸能関係などに知識のある側近のことで、言わば将軍のお世話係のような存在のことを言います。
能阿弥はその他にも、柄杓(ひしゃく)の所作に弓の作法を取り入れたり、足の運び方には能の足取りを取り入れるなど、様々な動作に礼法を定めたことで、書院茶の作法が確立することとなりました。
このように確実に武士達に定着していったお茶ですが、庶民の間でも次第にお茶が口にできるようになっていきます。
庶民のお茶
室町時代に庶民の間で飲まれていたお茶は、上流階級で飲まれていた粉で飲む抹茶とは違い、お茶の葉を炒ったり、天日で乾燥させたりした茶葉を茶釜で煮出して飲んでいました。
当時では庶民のことを「地下人(じげにん)」と呼んでいたこともあり、庶民の簡素なお茶は「地下(じげ)の茶」と呼ばれました。
この「地下の茶」と「書院の茶」を融合したのが、わびの精神を大切にした『村田珠光』でした。
「わび茶」の始まり
草庵(そうあん)の茶
珠光は、能阿弥に学んだ贅沢な「書院の茶」に、地味で簡素な「地下の茶」を取り入れ、さらに大徳寺の僧侶であった一休宗純(いっきゅうそうじゅん)から学んだ「禅(ぜん)の精神」を取り入れた、精神的で芸術性を持つ茶道を生み出しました。
能阿弥が18畳の書院の座敷を使用したのに対し、珠光は4畳半の草庵(そうあん)の座敷で茶事をすることを考案したそうです。
草庵とは、茅(かや)や藁(わら)などで屋根が作られた小さな家のことを言い、珠光は草庵造りの家に住み、そこでお茶を点(た)てたことから「草庵の茶」と言われています。
また、珠光はそれまで銀や象牙で作られていた唐物の茶杓(ちゃしゃく)を竹製に変えたり、唐物の掛け軸を禅宗の高僧が墨で書いた書である墨蹟(ぼくせき)に替えたりするなど、和風化も果しました。
その後、珠光の「わび茶」は、養子である『村田宗珠(むらたそうしゅ)』と『武野紹鴎(たけのじょうおう)』によって発展することとなります。
武野紹鴎のわび茶
「武野紹鴎(たけのじょうおう)」は堺(大阪府)の裕福な商人でしたが、大徳寺で禅の修行を行い、その後、珠光の「わび茶の精神」を学びました。
紹鴎は「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」の考えに基づき、珠光の「草庵の茶」をさらに簡素化させ、精神性を高めた「わび茶」を始めます。
「茶禅一味」とは、茶の湯(茶道)は禅から起こったものであるから、求めるところは禅と同一であるべきという意味があります。
茶道具は全て唐物から、日用品であった瀬戸・備前・信楽などの茶碗を使用し、茶室も3畳半から2畳半にするなど、質素の中で心からお客様をおもてなしするという精神性に重点を置いたものへと変わりました。
また、紹鴎は若い頃に連歌を学んでいて、『藤原定家(ふじわらのていか)』の和歌の本質論である「詠歌大概(えいがたいがい)」を伝授されたことで、和歌の世界を茶の湯に取り入れることも考案し、掛け物として藤原定家の和歌が掛けられたそうです。
定家の有名な歌に「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」という歌がありますが、こちらの歌は「見渡すと、春に咲く桜の花も、秋の紅葉もないことだなぁ。海辺の粗末な小屋の秋の夕暮れは。」となります。
歌の意味としては、「季節に彩る風景も美しいが、寂しいこの夕暮れの風景もまた美しい」となり、美しく華やかな風景と、寂しい海辺の夕暮れの風景を対比することで、より寂しさを強調する歌となっています。
この歌は紹鴎の「わび茶の精神」を表す歌だと言われており、現在では「わびさび」の表現が素晴らしいと高く評価されています。
そして、この紹鴎の「わび茶」を完成させたのが弟子であった『千利休(せんのりきゅう)』でした。
千利休の茶の湯
利休が「わび茶」を完成させたのは安土桃山時代になります。
利休は18歳の頃に紹鴎にお茶を学び、臨済宗南宗寺(りんざいしゅうなんしゅうじ)で禅の修行を行いました。
やがて利休は茶人としての才能を開花させ、23歳で茶会を開いています。
その後、織田信長に茶の湯(茶道)の腕を見込まれ茶頭(さどう)に抜擢されると、一目置かれるようになった利休は、信長が討たれた後も引き続き豊臣秀吉に仕えることとなりました。
茶頭とは、茶会の準備をしたり、美術品の鑑定などを行ったりする重役のことを言います。
利休は60歳までは先人の茶の湯を全うしましたが、61歳になってようやく独自の茶の湯を始めるようになります。この年は信長が本能寺の変で討たれた1582年のことでした。
わび茶の完成
利休は、極限まで無駄を省いたわび茶の完成を目指し、名器と言われる高価な茶器は使用せず、国産の簡素な茶器や、大量生産された輸入品の高麗茶腕などを使用しました。
また、自身でデザインした茶碗を作らせたり、自ら竹を切って道具を作ったりと徹底的にわびの美を追究し、納得がいくものへと変えていきました。
そして、利休の変革は茶道具だけにとどまらず、茶室やおもてなしの心も発展させていきます。
利休の茶室
それまで書院の部屋の一部を茶席としていましたが、草庵の風情を取り入れた茶席専用の茶室を作りました。
入り口は「にじり口」と言われる、頭を下げないと入れない、低く小さな入り口となっており、部屋は3畳や2畳といった狭い造りになっています。
茶室は北向きから南向きに造られ、連子窓や下地窓と呼ばれる明かり取りの窓から、変化する光を取り入れることができるようにしています。
部屋は簡素な土壁で囲い、その当時最先端であった畳を敷いたうえ、畳を切って昔ながらの炉(いろり)を作るという斬新なものでした。
また、茶室へ入る方法も考案されており、お茶に招かれた客人は飛び石を伝って庭を進み、茶室に向かいます。この茶室までの通り道を露地(ろじ)と言います。
茶室に到着すると、手水鉢(ちょうずばち)で手を清め、亭主のお迎えがあるまで露地に設置してある腰掛に座って待つという流れです。
利休はこの露地のことを「浮世の外の道」と言い、日常世界から離れ、茶の湯という違う世界へ向かう道と考えていました。皆が同じ飛び石を渡り、同じように頭を下げて茶室へと入る。どんなに偉い人でも茶室では皆平等という考えがあったからでした。
そして、利休は何よりも「おもてなしの心」を一番大事にしていて、心づくしのおもてなしをすることが利休のわび茶の精神だと言われています。
利休の「一期一会」のおもてなし
利休は、客人を迎える側も、客として訪れる側も、どちらも「二度とあることのない一生に一度の茶会である」という心持ちで、相手を敬い、お互いに恐れるくらいの緊張感を持って接するべきという考えを持っていました。
この考えは、どんな間柄であっても同じです。
そして、緊張感を保つために、点前(たてまえ)などの作法を厳格化させました。
また、利休は空腹時に濃茶を飲むと胃を痛めることから、お茶を楽しむための茶懐石を考案し、盛り付けから、順番、振る舞い方なども定めています。
茶懐石は、季節性やメッセージ性を与えて作ったものが多く、温かい料理を一品づつ提供されるというもので、一汁三菜を基本としていました。
客人は空腹が満たされたところで、濃茶が提供され、最後に薄茶と干菓子をいただくという流れになっています。
このように、さまざまな改革を行った利休のわび茶は、武士の間で取り入れられるようになり、「利休七哲(りきゅうしちてつ)」と呼ばれる7人の優秀な弟子も誕生することとなりました。
利休においては、その秀でた美学をうかがい知ることができる話が残っていますのでご紹介します。
- ある初夏の日のこと、利休は秀吉に「朝顔が美しく咲きましたので、茶会はいかがですか」とお誘いをしました。秀吉は、「満開に咲いた朝顔を眺めながらお茶を飲むのは、さぞ素晴らしいに違いない」と楽しみにして茶会へ訪れたところ、庭に朝顔は一つもなく、全て切り取られて無くなっていました。不思議に思いながらも、がっかりして茶室へ向かうと、床の間に一輪の朝顔が生けてあり、それはとても美しい朝顔でした。利休は、満開の朝顔の中から一番美しい朝顔だけを残し、残りは全て切り取ってしまっていたのでした。秀吉は、利休の美学に脱帽したと言われています。
- ある日のこと、利休が秋の庭の枯れ葉の掃除を行い、全て綺麗に掃き終わったところで、何枚かの落ち葉をパラパラと撒く利休の姿を見ていた人がいました。その人が「なぜ綺麗にしたのに、落ち葉を撒くのですか」と尋ねたところ、「秋の庭には、少しくらい落ち葉があるほうが自然で良いのですよ」と答えたという話になります。
その後、利休は茶道の心得として『四規七則(しきしちそく)』を説き、現在までその心は受け継がれています。
利休の心得
『四規七則』という心得は、『四規(しき)』と『七則(しちそく)』という二つの言葉に分けることができます。
『四規』は「和敬清寂(わけいせいじゃく)」というお茶の精神のことを言い、「和・敬・清・寂」それぞれにお茶の心が込められています。
和敬静寂とは
「和敬静寂」には、主人と客人がお互いの心を和らげて敬い合い、茶室や茶道具、雰囲気などを清潔に保つという意味があります。
また、それぞれの意味は次のようになっています。
- 和・・・人との調和を大切にし、お茶を互いに楽しむこと。
- 敬・・・敬う心を持ち、互いを敬い合うこと。
- 清・・・心を清らかな状態にすること。
- 寂・・・どのような時も心を落ち着かせること。
『和敬静寂』は、茶道が華美なものへと変わらないようにする利休の戒めの言葉だと言われており、華やかなものを嫌った利休の『わびさびの心』を表した言葉となっています。
七則とは
『七則』は「人と接する時の7つの心得」のことを言います。
- 茶は服のよきように点て…(飲む人に合わせてお茶を点てること)
- 炭は湯の沸くように置き…(お湯を沸かすための炭の準備は怠らないこと)
- 花は野にあるように生け…(花は野に咲く花のように自然に生けること)
- 夏は涼しく冬は暖かに…(客人が過ごしやすい環境を整えること)
- 刻限は早めに…(時間には余裕を持つこと)
- 降らずとも傘の用意…(不慮の事態を想定し備えること)
- 相客に心せよ…(同席した客人には思いやりの心を持って接すること)
この心得を知ると、利休による「一期一会」のおもてなしの精神が感じられますね。
簡素で静寂な趣のある空間の中で、主人と客人が心を通わせ、茶器や生け花などに思いを巡らせながらゆっくりと流れる時間をお茶と共に味わう。
これこそ「わびさび」を感じる時間となっています。
なんとなくでも「わびさび」の意味を理解していただけたでしょうか。次は「わびさび」の使い方について説明していきます。
「わびさび」の使い方
「わびさび」は、一般的に「飾り気がなく、質素で静かなもの」に対して、味わい深さや、奥ゆかしい美しさを感じた時に使用される言葉となっています。
例文としては、次のようなものがあります。
- 人里離れた旅館の雰囲気にわびさびの趣を感じた。
- 日本庭園のししおどしの音にもわびさびを感じることができた。
- 山で苔の生えた石を見つけ、なんとも言えないわびさびを感じた。
- 先祖代々のゆかりの品は、わびさびのある渋い茶碗だった。
いざ「わびさび」を使用するとなると難しいかもしれませんが、ぜひチャレンジしてみて下さいね。
では、最後に「わびさび」の類義語を紹介します。
「わびさび」の類義語とは
「わびさび」の類義語には次のようなものがあります。
・風情・趣(おもむき)・情趣(じょうしゅ)・味わい・枯淡(こたん)・気韻(きいん)・風韻(ふういん)・幽玄(ゆうげん)・あわれ・興趣(きょうしゅ)・静寂閑雅(せいじゃくかんが)
現在ではあまり聞き慣れない言葉も多いですが、たくさんの類義語が存在していますね。
しかし、「わびさび」自体が日本人の感性を表す言葉となっていますので、他の言葉では言い変えることが難しい言葉となっています。
まとめ:「わびさび」は「詫び」と「寂び」の二つの概念を合わせた美的概念のこと
- 「詫び」は内面的美しさを表し、控えめで静けさがあり、簡素な趣のこと
- 「寂び」は表面的美しさを表し、静けさの中で生まれる奥深い美しさや、古びていったものから感じられる趣のこと
- 「わびさび」は不完全なものが持つ簡素な美しさや、朽ち果てていくものに奥深さを見いだす心のことを言う
- 「わびさびの心」と禅の精神が結びつき、茶道となった
いかがでしたでしょうか。
「わびさび」という概念は、茶道と共に広がり、日本の中心的美意識の一つとして今や海外にまで知られるようになりました。
海外では完璧なものや、対称的なものが美しいとされる文化ですので、日本人の「わびさび」の心は一般には理解しにくいものかもしれませんね。
海外にもアンティークを味わう文化がありますが、アンティークは良質に作られた家具などが、時を経ることで深みを増し、より魅力のあるものになることを言います。
ですので、古びた簡素なものに趣を感じる「わびさび」とは少し違う概念と言えるでしょう。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。